2018年4月21日土曜日

ツグミ(6) 江戸の 禽譜,鳥類図譜.蘭山禽譜,花鳥写真図彙,水谷禽譜,不忍禽譜,禽鏡,梅園禽譜

Turdus eunomus

多くの江戸時代の鳥類図譜にツグミは描かれている.
図はNDLの公開デジタル画像より部分引用.


★小野蘭山(17291810) 蘭山禽譜』①
故磯野慶大教授の本書の書誌情報によれば「自筆本天地2冊は明治42年(1909)の蘭山没後百年記念会までは存在していたが,現在は行方不明である.しかし,諸書の検討によって,天之巻(水鳥)と地之巻(水鳥以外の鳥類と獣類)の2冊から成り,鳥類計307品・獣9品と推定されている.その諸書のうち,東京大学総合図書館蔵『禽譜』(T86177本,鳥305品・獣9品)がほぼ完全な転写本らしい.なぜ獣類が少数含まれるのかは不明である.
NDL 所蔵資料はその「地之巻」に当たり,鳥171品と獣7品を含み,各品とも雌雄を描く例が多い.記文では産地や渡来年,形状や色彩を簡潔に記す.なお,『水谷禽譜』(特7-526)には,『蘭山禽譜』から転写した図と記文が少なくない.木村蒹葭堂の『蒹葭堂禽譜』も,『蘭山禽譜』を転写した禽譜である.」とある.

真ツクミ チヤウマ 江戸
狀大抵同シ目淡赤褐觜淡黒足淡黄褐
頂及目辺翅端尾皆淡黒色目上ヨリ背翮
辺淡赤褐黄胸白脺白腹白斑文アリ
是ハ庭中ニ不渡来又網シカタシモチニテ取
味美之」とあり,網かトリモチで捕え,味が良いとある.
また,これより前の「シナヒ」の項には,「俗諺ニ除夜ニツクミノアツモノヲ食レハ明年疫ニ染スト」とあり,祝い膳というより,疾病予防の意味と理解していたようだ.

★北尾重政 (1739 - 1820) 画『花鳥写真図彙 初・二編各3 (1805-1827) に「蒲公英 ちゃうま」の題で,タンポポとツグミの多色木版画が収められている.
②『花鳥写真図彙』「蒲公英 ちゃうま」
重政は江戸中・後期の浮世絵師.江戸の人.北尾派の祖.本姓,北畠.通称,久五郎.美人画・風景画にすぐれ,山東京伝・曲亭馬琴らの戯作の挿絵も多い.書・俳諧もよくした.
花鳥写真図彙』は重政画の花鳥絵本.色摺り.半紙本6巻合1冊.初編3冊.文化2年(1805)正月,原板西村宗七,書林大阪・柏原屋清右衛門,江戸・岡田屋嘉七,同和泉屋市兵衛梓.二編3冊.文政10年(1827)孟春(書肆名削除).料紙は奉書紙.絵師署名に「北尾紅翠斎模」とあり,初編の月所外史の序に「頃模写乎所其楽作一帖名曰花鳥真図」とあるように,模写を基本とした絵本で,狩野派などの花鳥画巻や舶載,和刻の画譜類を手本にしたと考えられる.『詩経』に所出の鳥や草木を中心に据え,「柀に文鳥」「戎葵に白頭翁」「菫菜 砕米菜 雲雀」(初編)など,漢名と和名両方を挙げながら,草花と鳥類をバランスよく描出する.彫りは精密であり,凡例に「畫都て色を設されは一々真に迫ることあたはす看宦恕宥し給へ」と,当初は,多色浮世絵の規制に遠慮してか,墨摺りによる板行を想定していたが,結局極彩色の色摺りが出された.通常の板摺に拭きぼかし,没骨,合羽摺りなどの技法を併用し,多様な彩色を施す.

★水谷豊文『水谷禽譜(1810)
尾張藩士・水谷豊文(通称は助六,17791833)は,若い頃に名古屋で医学を学び,小野蘭山に師事して本草学を学び,後に藩の薬園監督となる.文政9年(1826)宮駅で,江戸に向かうシーボルトに会い植物標本を見せ,シーボルトよりボタニストとして高い評価を受け交流が始まる.また彼は「嘗百社」(ひょうひゃくしゃ)と名づけた本草学研究サークルを主宰して,彼を中心にして薬草を見つけるフィールドワークを行ない,領内をくまなく歩いた.伊藤圭介の師匠である.その禽譜には,
「ツグミ
ハナスイ                        ツクシラウ 薩州
ツキメ 遠州      テウマ 羽州

百舌トスルハ非ナリツグミ歩ム時ハ首前ヘウツムク百舌十月以
後不鳴蟄ストツグミハ冬月蟄セズ種類多シ

大晦日ニツグミヲ食ヘバ翌年傷寒不煩節分ニ食説モアリ」

とあり,百舌は本草綱目に10月以降姿を見せないとあるが,ツグミは冬に穴籠りはしないので,百舌とするのは不適切としている.しかし,日本に渡ってくるので中国では,冬に姿を見せなくなるのを,「蟄ス」と解釈したのであれば,「非」とする根拠としては乏しい.

★牧野貞幹『鳥類写生図(1810)
常陸笠間藩の第四代藩主牧野貞幹(1747 - 1828)は幕府の奏者番を勤めるほど優秀であったが, 42才の若さで藩主のまま死去した.忙しい政務の合間に、本草学の分野では『鳥類写生図』(4巻)『草花写生』(8巻)を自身の写生で残した.『鳥類写生図』には,約200種類の鳥が収められ,図には羽の特長を書き添えるなど本格的な図譜である.

★屋代弘賢『不忍禽譜(1833)
屋代弘賢(やしろひろかた)(1758 - 1841)は江戸幕府幕末の御家人で,通称は太郎,名は栓虎.後に栓賢,弘賢,栓丈と改める.号は輪池.国学を塙保己一に学び,また書道を森尹祥に師事し, 22才で家督を継ぎ,天明元年(1781)に西丸台所に出仕.寛政5年(1793)松平定信に認められて奥右筆所詰支配勘定格になった.文化元年(18043月御目見以上に昇進し,文化2年(1805)にロシアに対する幕府の返書を清書した.『藩翰譜続篇』『寛政重修諸家府譜』など幕府の編纂事業に参加,『古今要覧稿』編集の中心となり,また塙保己一の『群書類従』の編集にも関わった.文化人(柴野栗山・成島司直・小山田与清・大田南畝・谷文晁ら)との交流もあり,和漢典籍の収集に努めた.その蔵書を《不忍文庫》と称し,5万冊を収蔵した.

★滝沢馬琴『禽鏡(1834)
「椿説弓張月」や「南総里見八犬伝」の読み物など多くの名作を生みだした,曲亭馬琴(滝沢馬琴,1767 - 1848)は,幼い頃からの鳥好きで知られる.彼が渥美赫州(娘婿の渥美覚重のこと)に描かせた6巻からなる鳥図鑑。255種類306図の鳥の絵に,馬琴が「瀧澤解」の名で解説を加えている.赫州は書物から鳥の絵を模写している.『鳥名由来辞典』の「図譜に描かれた鳥の種名の同定」によると,馬琴による解説は佐藤成裕の『飼籠鳥』から多く引用されているとのこと.

★毛利梅園『梅園禽譜(1839)
このブログで度々取り上げてきた『梅園図譜』の著者★毛利梅園(1798 1851)の『梅園禽譜』(1839 序)には,精密で美しいヒヨドリの図と共に,以下のような記述文が記載されている.この記述で別名とされている「雀鷂」は,一般的には小型のタカ「ツミ」の漢字名とされている.
「梅園禽譜
雀鷂其味尤隹(ヨ)シ鷹匠家ニ三ツ物ト称スルハ
雀鷂 赤腹 鵯(ヒヨトリ)也鳩ニ次ケリ雀鷂諸家
ニテ秋冬ノ間多ク取リテ味噌ニ淹テ節分ノ〓
物トス是ニ豆ヲ加ヘテ祝儀トス豆ニ次身(ツクミ)ト云俗
語也又ツクミ能ク疫病ヲ避(サケル)ト云雀鷂ニ数種
アリ真(マ)ツクミト云ハ〇テウマ也〇磯ツクミ色青色
海辺ニ居ス〇白ツクミ〇眉(マミ)白〇赤ハラ〇八丈ツグミ
秋渡ル毛柿色嶋テウマト云〇眉白ツクミハ色黒目ノ
上ニ白キ筋アリ日光ヨリ出ル雌ハ虎斑ナリ尤雛ノ時ハ
黒カラス時ヲシテ黒クナル腹ノ照リノ赤キハ赤腹ト云
白ツクミ腹白脊茶色茶ジナイ共云鵺ツグミハ
鬼ツクミ虎ツクミト云赤茶色虎斑アリ」

2018年4月9日月曜日

ツグミ(5) 江戸時代 大晦日,節分,元旦,鴨長明四季物語,日次紀事,槐記,本草綱目,俳諧歳時記,増補俳諧歳時記栞草

Turdus eunomus
2018年2月 茨城県南部
ツグミという名称が「繼身(つぐみ)の訓(くん)」とされ,京都で大晦日に祝い膳としてツグミを焼いて食する習慣が,『和漢三才図会』(1713頃),『物類称呼』(1775)に記録されていることを,前記事に記したが,この風習は庶民の間でも長く続いた.
一方宮中でも大晦日には焼いて食して,厄払いとしたが,皇太子への正月の御年玉として,ツグミの絵の描かれた掛物が献上された.
また,武家では年末の節分に「福は内,鬼は外」の掛け声の後に,ツグミを焼いたものを肴に,酒を飲んだとある.

傳鴨長明『鴨長明四季物語』(1686)は古来宮廷で行われてきた年中行事のありさまとその由来について,四季を12巻に配して随筆風に述べたもので,雅文体の文章表現が特色である.巻頭に「城北微夫蓮胤書」とあり,奥書にも「蓮胤」(長明の僧名)とあるが,鴨長明の作ではなく偽書とされている.その内に
「四季物がたり  十二月 (中略)
ついな(儺名)の夜は、をけら(白朮)のもちゐ、つぐみの鳥など焼て奉り、御かれいゐの御まはりに奉れば、是もものヽ怪,ゑやみやらひぬべき本文侍るとなん。(後略)」(『續羣書類從』第32輯上 雜部93 卷第943,太田藤四郎〔續群書類從完成會〕1926)とあり,この鳥は、特別な俗信を持っていたようで,出版時にはこのような風習があったと考えられる. 鵺との関連が疑われる.

★黒川道祐『日次紀事(ひなみきじ)』(1676序)は江戸前期の京都を中心とする年中行事の解説書.正月から各月ごとに,毎月1日から月末まで日を追い,節序,神事,公事,人事,忌日,法会,開帳の項を立て,それぞれ行事の由来や現況を解説している.民間の習俗行事を積極的に採録したのが特徴.しかし,神事や儀式には非公開をたてまえとするものもあり,出版後まもなく絶板の処分をうけた.
その十二月の部,晦日の章に
「〇此-日 良-賤燒津久美(ツクミ)而食 フハ
之意而祝之ヲ 又称長間(マ)則取長久之意 (シチ) -志鳥 言心シテ-於他-而欲スナリスルヲ-也.」
この記述はその後の,曲亭馬琴の歳時記『俳諧歳時記』,藍亭青藍の『増補俳諧歳時記栞(しおり)草』にほぼそのまま受け継がれた.

★山科道安『槐記(かいき)』(1724-1735)は,18世紀初頭の摂関・太政大臣であった近衛家熙の言行を,その侍医であった山科道安が記した日記で,享保9年(1724年)正月に始まり,享保20年(1735年)正月まで至る.自筆本は明治26年(1893年)に火災にあい,4冊のみが近衛家陽明文庫に残る.公家の文化や学問に関する記述が多く,特に茶の湯や香道,花道に関する文献として重視されている.
享保十七年(1732)の記事に「享保十七年正月元旦參候,如二例年一御口祝拝戴,君様方へ御年玉にの掛物を獻上.」とある.家熙が後の桜町天皇になる中御門天皇の御子たちに献上したのであろうか.「鶇」と「継ぐ身」をかけて,宮中でもおめでたい鳥であったのであろうか.『鴨長明四季物語』の記述とは矛盾するようだが.

「椿説弓張月」や「南総里見八犬伝」の読み物で知られる★曲亭馬琴 (1767 - 1848) の歳時記『俳諧歳時記』(1803)は, 俳諧の季語2600余を四季別・月順に配列して解説を加えた季語分類事典である.内容は,「発端三論」で,俳諧の字義,連歌権輿(はじめ)の論,俗談平語の弁を記し,季語を四季別に,各月と三春(夏,秋,冬)を兼ねる詞に分けて解説し,後に,俳諧の式や恋の詞,付合の論,点取の論などを付している.従来の歳時記の京都中心の記述と異なり,江戸中心の解説が施されている点に特色がある.
その「十二月」の章に「除夜(じょや) 十二月晦日,これを除夜といふ,言(いふ)こヽろ
ハ此夜舊年を除(のぞ)く也,本邦の俗,この日つぐみ鳥を焼て食ふ,是繼身(つぐみ)の訓(くん)によりて賀(が)する也,叉質(しち)
をとる家,かし鳥を食(くら)ふ,是借取(かしとり)の
祝語(しゆくご)なり,今は大かたこの戯(げ)なし.大歳(おおとし) 元日を小歳と
いふに對して,晦日を大歳といふ.」
とあり,大晦日に「つぐみ」に「繼身」を掛けて,ツグミを焼いて祝膳にしたとある.また,質屋ではカシドリ(カケス)も「貸した金を取り返す」にかけて大晦日に食したとある.

その48年後の嘉永四(1851) 年,藍亭青藍(生没年不詳)によって増補版『増補俳諧歳時記栞(しおり)草』が刊行された.この書では,馬琴の『俳諧歳時記』の欠点であった「神祭・仏事・公事は詳しいが,草木鳥獣などの注釈に不完全なものが多い」(『栞草』序文より)という点を改善するため,季題を2,600余から3,400余に増し,さらに馬琴の分類が月別であったのを四季順いろは引きに編集し直しているため,馬琴の著作というよりも藍亭青藍のオリジナルといったほうが良いかもしれない.
その「」の巻,「る,を」の部の「十二月」の章には
大晦日(おおつごもり)[紀事]此日良賤つぐ
  み鳥を焼(やき)て食ふ,いふ
こころは身を継(つぐ)の意に取てこれを祝(いわ)ふ,長間と称し
是長久の意に取,質(志ち)を取の家かし鳥を食ふ,いふここ
ろは金銀他人に借(かし)て,其
利を欲する之」とある.
馬琴は「今はこの戯なし」と言っていたが,50年後にも大晦日にツグミを焼いて食べる習慣は広くあり,「馬鳥」をひっくり返した「ちょうま(鳥馬)」という俗名まで,「長間」とかけて縁起の皿にしたとある.

幕臣として必要な知識を簡単に得られる書物を手元に置きたい.『武家必擥殿居嚢(とのいのう)』は,そんな要望に応えて出版された書.前編が天保8年(1837),後編が同10年に刊行され,懐中可能な小型の折本(おりほん)の表裏に,江戸城の詳細な行事カレンダー,老中以下諸役一覧,服喪の規程,江戸城内や日光山の略図など,多彩な情報が収録されている. 著者は,小十人(こじゅうにん)組の旗本大野広城(おおの・ひろき 通称は権之丞,号は忍軒・忍屋隠士ほか.1788-1841).幕府や江戸城内のさまざまな情報を載せているため,幕府を憚って著者を藤原朝臣とし,限定300部の出版である旨を記したが,天保12年(18416月,大野広城は,本書等の出版の罪で丹波国綾部(あやべ)藩主九鬼隆都(くき・たかひろ)に身柄を預けられて(「御預」)監禁され,同年,綾部の地で病死した.
『古事類苑』の「歳時部十九 節分」の項に
「〔殿居囊 三編〕節分 福内、二抓、中音ニ而二聲、 鬼外、一抓、大音ニ而一聲、 御盃 御酒 御肴 燒鳥 御吸物 大鷺 右相濟、三方ニ大豆ヲノセ、詰合之面々ヘ被下、畢而御吸物御酒被下之、爲御祝儀御前時服五被下之、御飾之數三百六十柊 樒之枝ニ鰯之頭ヲサス」とあり,年内に立春がある時は,その節分に「福は内,鬼は外」の声を出して豆を播いた後に,酒の肴に「ツグミ」の焼き鳥が饗応されるのが習だとある.武家にとって「ツグミ」は特別な鳥であったのだろう.

節分は,現在では二月の行事とされているが,前述の『増補俳諧歳時記栞(しおり)草』では,十二月の季語とされており,『日次紀事(ひなみきじ)』等を引用して次のように記されている.
「[十二月]
節分(せつぶん) 豆打 柊さす なよしの頭さす 鰯さす 鬼は外福は内 年越

凡(およそ)節分は立春の前日にあり。年内節分あるときは、禁裡熬豆(いりまめ)を殿中に撒(まか)せられて疫鬼(えきき)を逐ふ。春にあるも亦然り。今夜、大豆を轍(まく)を拍(はやす)といふ。同夜、家々の門戸に鰯(いわし)の頭首(かしら)、并に狗骨(ひヽらぎ)の条(えだ)を挿む。
伝へいふ。この二物、疫鬼の畏(おそ)るヽ所なり。一家の内に事を執(と)る者を年男(としおとこ)といふ。高声に鬼は外福は内と呼(よび)て、疫(えき)を禳(はら)ひ福をもとむ。下略
○なよしの頭さす 土佐日記九重(こヽのへ)の門の注連縄(しめくりなは)、なよしの頭(かしら)、ひゝらぎさす、なんど、いかにとぞいひあへる、云々。日本書紀]云、口女(くちめ)即鯔魚(なよし)、云々。ト部(うらべ)の説には、鱅(このしろ)なりといへり。逍遥軒は名吉(なよし)、伊勢鯉といふ魚也、云々。
○いわしさす 埃嚢抄]聞鼻(かぐはな)と云(いふ)鬼ありて、人を食へば、鰯(いわし)を炙串(あぶくし)となづけて、家々の門にさすべし。然るときは鬼、人をとるべからすと、毘沙門(びしゃもん)の御示現(ごじげん)、云々。世の中はかずならねどもひゝらぎの色に出(いで)てもいはじとぞおもふ 為家 
○むかしは、なよしの頭さしたりしを、後(のち)に鰯にかへし物ならんか。」

脚注
九重の門の… 青谿屋本『土佐日記』「大湊滞留」の項には「小家(こへ)の門(かど)のしりくべ縄(なは)の鯔(なよし)の頭、柊(ひひらぎ)ら、いかにぞ」とぞいひなる」。
世の中は・・・『夫木和歌抄』巻二十九「ひゝら木」の部に「貞応二年百首木」 と題し、上の句 「かずならずとも」の歌本文で所出。
▽舟うるや声もたからか節分の夜 言水(誘心集)
(曲亭馬琴 編,藍亭青藍 補,堀切実 校注『増補俳諧歳時記栞草 下』岩波文庫 (2000) による)

2018年4月2日月曜日

ツグミ(4) 百舌鳥・反舌 和漢三才図会,本草綱目,国訳本草綱目,三才圖會,物類称呼「けら腹たてバ つぐみよろこぶ」,鳥のことわざウォッチング

Turdus eunomus
百舌図 ①和漢三才図会,②本草綱目金陵万暦 18(1596)刊,③同.稲生本,④本草図經,⑤三才図会
ツグミは,寺島良安『和漢三才図会』や越谷吾山『物類称呼』によって『本草綱目』に載っている「百舌鳥・反舌」と考定された.明治期の『国訳本草綱目』においても,仮に「百舌鳥・反舌」と考定されているが,近代中国においてはこの「百舌鳥・反舌」は廃語となっているとも記されている.
しかし,水谷豊文は『水谷禽譜』 (1810) において,この考定は「非なり」としている.
『本草綱目』や『三才圖會』の,「百舌鳥・反舌」が冬になると穴にこもるとの記述は,ツグミが中国北部から南に渡りをして見えなくなるのを,言ったのかもしれない.
『物類称呼』には,幾つかの地方名(つむぎ,てうま,かごめ,つぎめ,つぐ)と記録」され,また『和漢三才図会』とともに,京では除夜に是を炙って食べて祝膳とするとある.

★寺島良安『和漢三才図会』(1713頃)の「巻四十三 林禽類」には
百舌鳥(つぐみ,ヘツシヱツ ニャウ) 反舌
〓(害+鳥)鶴 舎羅梵書
△鶇[音東] 馬鳥
和名 豆久見
本綱,百舌鳥ハ樹孔窟穴ノ中ニ居ル.状鴝鵒ノ如クナレドモ小サク,身ハ略(ホボ)長ク灰黒色ニ微ニ斑点有リ.亦タ尖リ黒シ.行クトキハ則チ頭ス.好ミテ蚯蚓(ミミズ)ヲ食フ.立春ノ後則チ鳴キ,囀リ巳マズ.夏至ノ後則チ声無ク,十月ノ後則チ蔵蟄(チツ)ス.人或ハ之レヲ畜フニ,冬月ニハ則チ死ス.比ノ鳥陰鳥ナリ.能ク舌ヲ反シテ囀ルコト,又百鳥(モズ)ノ声ノ如シ.故ニ百舌・反舌ト名ヅク.周書ノ月令ニ,芒種ノ後十日反舌声無シ,之レヲ陰息ト謂フ.
△按ズルニ,百舌鳥ノ(俗ニ云フ,真豆久見)鵒鸜(クロツグミ)ノ如クナレドモ灰黒色ナリ.京師ニ毎ニ除夜ニ之レヲ炙食シ,祝例ト為ス.倭名抄ニ鶇ノ字ヲ用ウ.又一名馬鳥トイフ.(字義未ダ詳ナラズ)然ルヲ其ノ馬鳥又誤リテ,今鳥馬(チャウマ)ト称ス.」とある.(本文は訓読文,読み下し文にし,適宜句読点を入れた)

現代語訳★『和漢三才図会』島田勇雄,竹島淳夫,樋口元巳訳注,平凡社-東洋文庫(1991
「百舌鳥(つぐみ,ヘツシヱツ ニャウ) 反舌(はんぜつ)〓鶴(かつかつ) 舎羅(しゃら)[梵書]
△鶇(つぐみ)[音は東(トン)] 馬鳥
[和名は豆久見]
『本草綱目』(禽部、林禽類、百舌)に次のようにいう。百舌鳥は樹孔、窟穴中にいる。状は鵒鸜(ハハツテウ)に似ていて小さく、身はやや長くて灰黒色に、微(かすか)に斑点がある。また尖って黒い。歩行するときは頭を俯せる。好んで蚯蚓(みみず)を食べる。立春の後に鳴き囀り、鳴き止まない。夏至を過ぎると鳴かなくなる。十月すぎると蔵蟄(あなごもり)する。冬月にこの鳥を飼うと死んでしまう。これは陰鳥だからである。よく舌を反(かえ)して囀るが、百鳥の声のようである。それで百舌反舌という。『周書』(『礼記』)の月令に、芒種(陽暦の六月五日頃)がすんで十日たつと反舌は鳴かなくなる。これを陰息という、とある。
△思うに、百舌鳥〔俗に真豆久見(まつぐみ)という〕の状は鵒鸜のようで灰黒色。京都ではいつも除夜にこれを炙って食べて祝例としている。『和名抄』(羽族名第二三一)では鶇の字を用いている。また一名を馬鳥という〔字義未詳〕。けれども馬鳥をまた誤っていまは鳥馬(ちょうま)と称している。」
とある.

ここで典拠とされている★李時珍『本草綱目』(四十九巻,禽之三 (林禽類一十七種)禽部、林禽類、百舌)には,
百舌《拾遺》
【釋名】反舌、〇●(害+鳥)〓,音轄軋
〔時珍曰〕按『易通卦驗』云 能反複其舌如百鳥之音,故名●(害+鳥)亦象聲。今俗呼爲牛屎●(口+別)哥,為其形似鴝鵒而氣臭也。『梵書』名舍羅。
【集解】[藏器]肖百舌,今之鶯也。〔時珍曰〕百舌處處有之,居樹孔、窟穴中。狀如鴝鵒而小,身略長,灰黑色,微有斑點,喙亦尖黑,行則頭俯,好食蚯蚓。立春後則鳴囀不已,夏至後則無聲,十月後則藏蟄。人或畜之,冬月則死。《月令》仲夏反舌無聲,即此。蔡邕以為蛤蟆者,非矣。陳氏謂即鶯,服虔《通俗文》以 為白 烏者,亦非矣。音雖相似,而毛色不同。
肉氣味 缺。【主治】炙食,治小兒久不語,及殺蟲(藏器)
窠及糞【主治】諸蟲咬,研末塗之(藏器)。」

しかし日本で出版された『本草綱目』の貝原本(右図),稲生若水本には,和名は併記されていない.

★白井光太郎(監修),鈴木真海(翻訳)『国訳本草綱目』(1929)春陽堂の「禽部 第四十九巻」には
(一)百舌(拾遺)            和名 つぐみ?
                            學名 Morula eunomus (Temm.)
                             科名 つぐみ(鶇)科
(一)木村(重)曰ク,分布廣ク,春秋ノ渡リノ時ハ大群ヲナシテ支那大陸ヲ去來ス.滿洲ニテハ畫眉(フアメイ)ト稱ス.今百舌ノ語ナシ,假ニ定メテ後攷ヲ俟ツ.つぐみ他ニ數種ヲ分布ス.」木村重(きむら しげる、1902 - 1977)は,日本の魚類学者
「「百舌《拾遺》
【釋名】反舌、●(害+鳥)〓,音は轄軋(クワツアツ)である.時珍曰く按ずるに易通に『能く反複して百鳥の音のやうだ.故に●(害+鳥)鳥と名ける』とある。やはり聲に象(かたど)つたものだ。今俗間では牛屎●(口+別)哥(ぎうしべつか)と呼ぶ.それは形が鴝鵒に似て氣が臭いからだ。梵書には舍羅と名けている。
【集解】藏器曰く,百舌とは今の鶯のことだ。時珍曰く,百舌は處處にいる.樹孔や窟穴中に棲み,形状は鴝鵒のやうで小さいが,身がやや長く,灰黑色で微(かすか)に斑點があり,喙も尖つて黑く,行くには頭を俯せ,好んで蚯蚓を食ふものだ。春以後に絶えず鳴き囀り,夏至後には聲をださなくなり,十月以後には蟄(ちつ)に入る。世間では此を飼うものもあるが,冬期には死んで了ふ。月令に『仲夏,反舌に聲なし』とあるがこの鳥だ。蔡邕がこれを蝦蟇(がま)としたのは誤だ.陳氏は鶯だといひ,服虔の通俗文に●(害+鳥)〓を白 脰烏(はくとうてう)としたのも誤だ。音は似ているが,毛の色が異ふ。
[氣味]缺[主治]【炙いて食へば,小兒の久しく物を言はぬを治し,また蟲を殺す】(藏器)
及び[主治]【諸蟲咬に研末して塗る】(藏器)

★明王圻 (1592-1612) 纂集『三才圖會 全百六卷』萬暦371609)序刊の「鳥獣二巻」には
「反舌
反舌春始鳴
至五月止能
反易其聲以
効百鳥之鳴
故名反舌又
名百舌」とある

★越谷吾山 (171787)『物類称呼』1775年刊は,〈諸国方言〉と角書する方言辞書.55冊.全国各地の方言語彙,約4000を,天地,人倫,動物,生植(草木をいう),器用(道具類をいう),衣食,言語の7部門に分け,約500項の標語のもとに列挙する.ときに古書を引いたり解説を加えたりしており,凡例では,簡単ながら方言分布の大観をしている.日本における最初の全国方言辞典で,雅言が尊ばれた時代に方言語彙の編集を試みたことは評価すべく,また江戸中期の方言をうかがうに貴重な文献である.
その「巻之二 動物」に「百舌鳥 つぐみ〇五畿内の俗〇つむぎと云 関東にて〇てうまと呼 加賀にて〇かごめと云 遠江にて〇つぎめと云 仙臺にて〇つぐと云
〔本朝食鑑〕鶇(ツグミ)〔釈名〕馬鳥 鳥馬(てうま)也 螻蛄(けら)をつなぎ置て此鳥を取 東国にて鳥馬(てうま)をまはすと云 又諺*に けら腹たてバ つぐみよろこぶといえるもかゝる事を云にや 京師にて除夜毎に是を炙(あぶ)食を祝例とす」とある.

* ★国松俊英『鳥のことわざウォッチング』(河出文庫,1999)に
「鶫(つぐみ) ㉓喜べばケラが腹を立てる

ツグミを捕らえるのに、ケラが餌としてつないでおかれた。怒っているケラを見て、ツグミが喜んで寄ってくる。一方の怒ることが他方の喜びとなる。利害の対立する関係のことをいう。

このことわざは、かつて行なわれていた釣りツグミ猟の情景のひとこまである。鳥の猟にもいろんな方法があったが、ツグミを鉤でも釣ったのである。おもに茨城県鹿島郡で行なわれていたが、餌としてミミズやケラを使ったのである。このあたりには杜松(ねず)が多く、冬になって実が熟し始めると、ツグミがこれを食べに大きな群れで集まってきた。釣りツグミ猟では、鉤にミミズを刺したものを杜松のそばの地面をかきならした所に置く。鉤には木綿糸を六〇センチくらいつけ、竹の棒に結び地面に固定しておいた。熟した実を食べに来たツグミは、生きたミミズを見つけ大喜びで飛びつき捕まってしまう。鳥を魚のように釣るなんてユニークな猟だが、この釣りツグミ猟は十二月中旬から三月中旬までつづけられた。」と,言葉順の逆の諺があるとある.

『物類称呼』に収録された諺の方が,順としては正しいように思われるが.