2018年2月19日月曜日

キンラン (5/6) 飯沼慾斎『草木図説』,牧野富太郎校訂『増訂草木図説』参考歐州本草書・植物学書

日本最初のリンネ分類による日本の植物の図鑑として知られる★飯沼慾斎『草木図説』は草類1250種,木類600種の植物学的に正確な解説と写生図から成る.草部は1852年(嘉永5)ごろに成稿され,56年(安政3)から62年(文久2)にかけて出版された.
慾斎がこの書を著すに際しては,ドドネウス Rembert Dodoneus1517 -1585),ホッタイン Martin Houttuyn1720 - 1798),オスカンプ Dieterich Leonhard Oscamp (1756-1803),クニフォフ Johann Hieronymus Kniphoff1704 - 1763),ワインマン Johann Wilhelm Weinmann1683 - 1741)及びツンベルク Carl Peter Thunberg1743 - 1828)の六人の植物学者が著した書籍を参考にした事が知られ,これらの書籍から.相当すると考定した植物のラテン語名・和蘭語名を記載した.

慾斎が参考にした欧書の表紙
後年の★牧野富太郎校訂『増訂草木図説』(1907-22)成美堂 の牧野による「巻末ノ言」には,慾斎が『草木図説』中に参考にした歐州本草・植物学書の引用文献について,慾斎の苦労をしのびつつ,
「〇當時我邦ノ人能ク引用書ノ原書名ヲ著ハサズシテ唯其譯名ノミヲ掲ゲ叉林氏,春氏,等ト記シテ著者ハ全名ヲ舉ゲズ毎ニ後人ヲシテ其著者ノ名ト書名トヲ模索スルニ苦シマシム弊ト謂フベシ」といい,以下のようにその分献名を明らかにした.

番号は上図にしめした各書籍の表紙図の番号と一致.いずれも BHL より得られる.


引用文献
著者名
牧野富太郎校訂『増訂草木図説』の「巻末ノ言」 文献名及び発行年
鐸氏
ドドネウス(Rembertus Dodonoeus
Cruydt-boeck
1618
林氏
ホッツイン(F. Houttuyn
Linnaeus Natuurlyke Historie
1761-1781
阿須氏
オスカム(Dider. Leon. Oskamp
Afbeeldingen der Artseny-Gewassen
1796-1800
物印滿氏
ワインマン(Job. Guil. Weinmann
Phytanthoza Iconographica
1737-1745
印葉圖
キニホフ(Johann Hieronymus Kniphof)
Botanica Herbarium vivum etc.
1757-1764
春氏
ツンベルグ(Carl Peter Thunberg
Flora Japonica
1784
西勃氏
シーボルト(Philipp Franz von Siebold
不明
 

○書中又時々鐸氏ト云フ是レ「ドドネウス」氏(Rembertus Dodonoeus 即チ R. Dodoenus)ニシテソノ書ハ Cruydt-boeck ナリ西暦一千六百十八年(元和四年)和蘭国「ライデン」府ニ於テ出版セルモノナリ

○書中著者能ク林氏ト記セリ是レ和蘭國「ホッツイン」氏(F. Houttuyn)ノ著書ニシテ,固ヨリ林氏即チ「リンネ」氏(Karl von Linne' 即チ Carl. Linnaeus)自身の著書ニアラズ.唯「ホッツイン」氏ガ「リンネ」氏ノ學式に則テ以テ天物ヲ記述セルモノニシテ,題シテ Linnaeus Natuurlyke Historie ト云ヒ,全部三十四巻アリ.西暦一千七百六十一年(寶暦十一年)ヨリ同一千七百八十一年(天明元年)ニ亙リテ,同國「アムステルダム」府ニテ出版シタルモノナリ.而シテ書中又其第一種、第二種等ト云フハ,原書中其植物ヲ列記セル順次ノ號數ナリ・著者即チ飯沼慾齋翁ハ,主トシテ此書ヲ用ヰ以テ植物ノ洋名ヲ定メタリ.而シテ其之ヲ定メントスルヤ,其属(Genus)種(Species)ヲ捜索スルニ,其間實ニ多數ノ時間ヲ費セシコト,今ヨリ之ヲ想像スルニ餘リアリ.其僅ニ一行ニ記シ下シタル只一個ノ羅名(ラテン名)及ビ蘭名(オランダ名)ヲ抽出センガ爲メニハ,實ニ如何ニ長ク著者ヲ苦シメシカハ,此ノ如キ事業ニ經験アル人ノ直ニ首肯スル所ナリ.況ヤ當時ニ在テハ其参考ニ資スベキ圖書固ヨリ少ナク,今時ノ如ク幾多利便ノ典籍之無キヲヤ.今日ニ在テ翁ノ定メシ名稱ヲ閲スレバ,則チ其名ノ其實ニ副ハザルモノ甚ダ多シト雖ドモ,當時ニ在テハ何人ト雖ドモ葢シ之レ以上ニ出ヅルコト能ハザリシナルベク,頭脳非凡ニシテ精力絶倫ナル飯沼翁獨リ能ク之ヲ爲セシノミ.固ヨリ竟ニ本草式ヲ脱スルコト能ハザリシ.伊藤圭介氏等ノ企及シ能ハザリシコトハ,同氏等ノ著書并ニ言行ニ徴シテ,今ヨリ之ヲ追想スルニ難シカラズ.此ノ如キハ眞ニ睹易キ事歴ニシテ,印痕彰々敢テ春秋ノ筆ヲ俟タズシテ明カナリ.翁ノ齢既ニ知命ヲ過ギテ身老境ニ在リト雖ドモ,奮テ之ヲ遂グ.其氣力ノ旺盛ナル壮者ト雖ドモ,遠ク及バズ.世ノ此書ヲ繙ク者,翁ノ此勞ニ想到スルコト鮮ナシ.故ニ特ニ之ヲ記シテ翁ノ努力セル一斑ヲ示スコト此ノ如シ

○書中又、阿須氏ト云フ是レ「オスカム」氏(Dider. Leon. Oskamp)ニシテソノ書ハ Afbeeldingen der Artseny-Gewassen ト題シ四巻アリ卽チ西暦一千七百九十六年(寛政八年)ヨリ同一千八百年(寛政十二年)ノ間ニ於テ和蘭國「アムステルダム」府ニテ出版セラル藥用植物圖譜ナリ

○書中又、物印滿氏ト云フ是レ「ワインマン」氏(Job. Guil. Weinmann)ニシテ其書ハ Phytanthoza Iconographica ト云ヒ全部四巻ヨリ成リ西暦一千七百三十七年(元文二年)ヨリ同一千七百四十五年(延享二年)ノ間ニ獨逸國「ラゲンスブルヒ」府ニ於テ出版セル植物ノ彩色圖譜ナリ

○叉、印葉圖ト云フ是レ「キニホフ」氏(Johann Hieronymus Kniphof)ノ著 Botanica Herbarium vivum etc. ヲ指シタルモノニシテ西暦一千七百五十七年(寶暦七年)ヨリ同一千七百六十四年(明和元年)ノ間ニ於テ獨逸國「ハレ」府ニ於テ出版シタル書ナリ
○書中又、西勃氏ト云フコレ「シーボルト」氏(Philipp Franz von Siebold)ナリ而シテ飯沼翁ハ同氏ノ孰レノ書ヲ用ヰシヤ予ハ未ダ之ヲ知ルニ及バズ

○書中又、春氏ト云フ是レ「ツンベルグ」氏(Carl Peter Thunberg)ナリ其書ハ即チ同氏ノ著 Flora Japonica ニシテ西暦一千七百八十四年(天明四年)獨逸國「ライプチヒ」府に於テ出版セルモノナリ而シテ飯沼翁ハ果シテ親シク本書ヲ使用シテ細心考證セシヤ否ヤ予ハ頗ル之ヲ疑フ何トナレバ翁ノ書中通ジテ其本書ヲ使用セシ痕跡ヲ認ムルコト能ハザルと同時ニ若シ又親シク本書ヲ手ニシテ以テ彼我参照セシトセバ則チ必ズヤ幾多ノ點晴ヲ書中ニ見ザルベカラザレバナリ或ハ當時絶テ無クシテ僅カニ之レアルガ如キ本書ナリシヲ以テ偶ニ他ノ所藏ノモノヲ閲セシ乎又或ハ只伊藤圭介氏編著ノ泰西本草名疏(上述「ツンベルグ」氏ノ Flora Japonica 即チ日本植物志ヨリ植物ノ名稱ヲ抜粋シテ羅列セシ書)ニ據リシモノ乎予ハ今之ヲ詳ニスルコト能ハズ

と記した.慾斎が参考にした書物は,ラテン語とオランダ語で書かれているので,当時の蘭学者必須のオランダ語は勿論,ラテン語も読みこなし,夫々の内容を相互に関連付けていた,慾斎の努力と才能は非凡なものがある.これ等の書物は現在は Bio Heritage Library で閲覧・ダウンロードできるが,当時はさぞ高価なものであったろう.

飯沼慾斎『草木図説』第18巻の「スヾラン キサンラン ハクサンラン」の項に引用されている欧書の該当部は,次の記事にしるす.

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