2017年7月15日土曜日

カタクリ(4)江戸中期-2 小林一茶 『父の終焉日記』

Erythronium japonicum 

既に述べたように,★貝原益軒『大和本草巻之九 草之五 雜草類』(1709)に「[和品]カタコ (中略)其粉如米ノ味甘シ食スヘシ人ノ補益スト云」とあり,また★建部清庵の『民間備荒録』(1717)  に「 ○かたかこ一名かたくり又かたこ。(中略)其粉如米。味甘し。食して人を補益すと云へり。」とあり,更に★茅原虚斎『茅窗漫録』(1833)には,「○カタクリ  病人飲食進みがたく、至て危篤(キトク)の症になると、カタクリといふ葛粉(クヅ)のごとくなる物を、湯にたてゝ飲(ノマ)しむ。近歳一統の風俗となれり。」とあるように,江戸時代には「かたくり粉」は,葛湯の様に練って嚥下し易くし,病人,特に危篤時の補益として与えられた.

★小林 一茶 (1763 – 1828) も享和元年(1801年)四月,帰省中に父の発病と看病,臨終と葬儀を経験したが,その三十余日間を、日記形式で記した遺文『父の終焉日記』(明治に荻原井泉水が付けた標題)中で,食欲がなかった病床の父が,かたくり」を練ったものを食べてくれたことを喜んでいる.
その日記を追ってみると,

一茶遺稿 父の終焉日記 束松露香校』

(享和元年)
○四月二十三日、晴。
此日は清和の天雲なく晴て、時鳥の初音告げわたりけるが、父は茄子の苗などに水をかけておはしけるに、何とかおぼしてんや、破冉青陽(はせんせいやう)の日なたをうしろにうけていましけていましける。一茶いかなればかゝる浅ましき處にうつぶしたまふらんと抱き起しはべるに、いかなる惡日にやありけん、いさゝか心地なやましうとなんありけるに、急に發熱さかんにして、膚は火にさはるがごとくなれば、飯をすゝむれど一箸も喉に通らず、こはいかにとひとり驚き、魂を消すといへどもせんすべなく、只揉みさするより外はなかりけり。
(以下略)」

父 弥五兵衛 農作業中に傷寒を発病 今に云う熱中症か

「(享和元年五月)
○四日
きのふに打變りて顔麗はしく『何ぞ食べたき』などいはるゝに、嬉しさ限りなく、よべの藥
のしるしに親のよみかへりたる心地して、カタクリなど練り參らせるに、椀に三ツ、四ツ、
三ツ啜りこみたまふ。道有(どうう)も此おもぶきにて變るの來らざれば、程なく快氣なるべしとなんい
はるゝに、枕に附添ふおのれも、やゝ安堵の思ひをなしぬ。道有老かへりたまふに、古間(ふるま)の里
迄見送り侍る。雨雲も西へ東へかたづきて、空の様此上なうめづらしく、時鳥の初音折得顔に
告げわたる。此鳥、疾くも鳴きつらんに、父の異例の日より、日は日すがら夜は夜すがら心を
空にして事へはべれば、魂狂ふことにして聞きつるは今日始めての心ちなりき。


(以下略)」

享和元年五月二十日 父 弥五兵衛 卯の上刻に死去

荻原井泉水校閲、束松露香校訂『一茶遺稿 父の終焉日記』(岩波書店、1922年) 近代デジタルライブラリー収蔵より,図も.

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