2016年11月11日金曜日

オシロイバナ-1 江戸時代に日本に渡来.『花譜』,『草花絵前集』,『大和本草』,『和漢三才図会』,『画本野山草』,『廣倭本草』,『花彙』 ,『本草正譌』,『本草正々譌』,火炭母草から紫茉莉

Mirabilis jalapa 
2016年10月
オシロイバナの英語名の一つはペルーの驚異 (Marvelous of Peru)である.十六世紀の後半,ペルーからスペインに運ばれ,それから欧州各地に広がった.この「驚異」は,一本の株でも,数種の色や模様の花(花弁ではなく萼)をつけることから名づけられた.花色は赤,黄,白に桃色が基本で,赤や黄色の絞りもある.絞りの入り方は一つひとつの花でも異なるが,これは易変遺伝子(いわゆるトランスポゾン)のしわざ.

それ以外でもオシロイバナには不思議がある.
第一に,花びらがない.赤や黄色の鮮やかな花は,色づいた萼が主役.基部に45枚ある緑色で萼のようなのは苞葉である.
第二は,開花時間が変わっていること.八月の関東地方では,日陰で午後三時過ぎ,西日の当たる場所では四時ごろに花が開く.香りは甘く,夜間も漂う.日のあるうちの開花時刻に活動する昆虫は多彩な色で引きつけ,夜の昆虫は香りで誘い,受粉効率のよい花だ.
種子の性質も特徴がある.花がしぼむと,萼筒の色づいた部分は落下するが,萼の基部は残り,それが黒く変色するころ,その中で一個の丸い実のような種子が成熟する.種子の皮をむくと,短い根と子葉にかかえられて,白い胚乳の塊がある.種子が柔らかいうちは,それは指で粉状につぶすことができる.小麦粉にも似るが,昔の人は白粉を連想し,事実,江戸時代には白粉の代用に使ったと寺島良安『和漢三才図会』(ca. 1713年)にある.

オシロイバナのふるさとは熱帯アメリカ.約60種の仲間も,ヒマラヤ産の1種を除いてアメリカ大陸に分布する.16世紀,スペイン人によってマドリードにもたらされ,欧州各地に広がった.
中国には16世紀末までに伝わった.高濂の『遵生八牋』(1591年)に,「紫茉莉」や「臙脂花」の名で出ていると,小野蘭山『本草綱目啓蒙』(1803-6年)にある.マツリカ(茉莉花)に似て,良い香りがし,花色が赤紫やえんじであることに注目してつけられた名前であろう.
日本には元禄までに渡来した.貝原益軒は『花譜』(1694年)で「花に黄,赤の二種あり」と述べる一方で,「暁に開く」と間違って書いた.恐らくまだ十分広がっていなかったのだろう.このことは伊藤一族の一連の園芸書でも裏付けできる.1695年の『花壇地錦抄』にはオシロイバナは見当たらず,1699年の『草花絵前集』には「おしろい」の名で絵が見られる.
★伊藤圭介(1803-1901)編著『植物図説雑纂』の「オシロイバナ」の章には,「モト琉球ヨリ来,今ハ世上ニ多ク栽ス」,「原琉球ヨリ種ヲ渡ス.今ハ世上ニ多ク栽ス」とあるが,出典は不明.

貝原益軒『花譜』NDL
リンネが1753年につけたオシロイバナの学名は,ミラビリス・ヤラッパ.属名のミラビリスは〝不思議な″という意味.種小名のヤラッパは,暖地では宿根となり肥大し,熱帯では重さ20キロ近くになる根が,メキシコ産のサツマイモ属の一種で下剤になるイポメア・ヤラッパの根と,クルシウスから誤認されたから(Alice M. Coats "Flowers and Their Histories"(1956)).

磯野の初見は★貝原益軒『花譜』の「七月」(1694)で,「白粉花(おしろいはな)
「花黄赤二種あり.正月二月にたねをうふ.甚茂盛す.ふる根も叉生ず.泥土によろし.七月に花開く.秋ふくるまで花あり.晝は,しぼみ暁に,ひらく.子は胡椒のごとし.うちに白き粉あり.黒泥をそそげば盛長し,花多し.」とあり,開花時刻には誤りがあるものの,「ふる根も叉生ず」と,当時日本でも暖地(貝原益軒は福岡に在住)では,宿根であることを記している.

『草花絵前集』NDL
伊藤伊兵衛三之丞画・同政武編『草花絵前集』1699)には,絵と共に「○おしろい
花形うつくしく、色べにむらさき、午時以後八つ 比より花さかりにして、其花明朝四つのほどまでありてしぼむ。つぼみ多くありて次第に毎日ひらく、六月より八九月迄咲。」とあり,開花が夕方,朝には萎むとあり,花期が非常に長いとある.

貝原益軒『大和本草』NDL
貝原益軒『大和本草』1713)巻之七 草之三 花草類 には,
白粉花(ヲシロイハナ)
葉は鶏冠花に似て枝節多く繁茂す 花は丁子の形の如く少長し 〇紅色叉黄花あり朝開き夕(ゆす)に萎む 實黒く大さ胡椒の如し中に白粉あり 根は黒くして大根の如く大なり 糞泥を好む肥れは花しげし 宿根より生す 叉正二月種子をうへて其年花を開く 宿根より生したるは六七月より花開け九月の末に終る 盛久し 中華の書にて未見之外国より來れる物なるへし 其性及び効能しれす」と記し,開花時刻は誤解のままだが,播種すればその年には花を見ることができるが,宿根の方が大きく茂ること.また,中国の書には見当たらない(実際には『遵生八牋』に記述があるが)ことから,それ以外の国から渡来したのであろうと云い,本草的には「性」「効能」が分からないとしている.

寺島良安『和漢三才図会』ca. 1713)巻第九十四之本 濕草類には,
寺島良安『和漢三才図会』
白粉草(おしろいぐさ)正字未詳 〔於之呂以乃木〕
△按ずるに、白粉草は春に苗を生じ冬枯る。高さ二三尺、叢生す。葉は淡青、柔かにして白鶏頭の葉に似て、微かに小さく団し。其の花朝以後萎み、夕陽に至りて開く。深紅色、五出単葉にして萼(くき)長きこと一寸余、亦た紅花中に紅の蕋を出す。細きこと糸の如し。萼の本に子を結び、灰黒色、皺あり。胡椒の如く中に白粉満つ。之れを釆りて婦人の面に塗る。光沢は鉛粉(おしろい)に優れり。俗に呼んで白粉草と謂ふ。其の葉は汁を揉みて折傷及び疥癬小瘡に傳(つ)けて皆良し。蓋し皮を剥ぎ、用ゐて白粉を取りて数(しばしば)涗斉して佳し。
(△思うに、白粉草(オシロイバナ)は春に苗が生え出て、冬には枯れる。高さは二、三尺。叢生する。葉は淡青色で柔らかく、白鶏頭の葉に似ているが、やや小さくて団(まる)い。花は朝が過ぎると萎み、夕陽の頃になると開く。深紅色の五弁、単葉(ひとえ)で萼の長さは一寸余。また紅花の中に紅蕊を出すが、糸のように細い。萼の本に子を結ぶ。子は灰黒色で皺があり、胡椒のようで、中に白粉が満ちている。これを採って婦人の面に塗る。光沢は鉛粉(おしろい)よりもすぐれている。俗に白粉草という。葉を揉んで汁を折傷(うちみ)や疥癬(かいせん)小瘡にぬるとよい。さらには皮を剥ぎ白粉をとり,これを数回涗斉(すいひ―水に溶かして上澄みをとり、沈澱させたものを取り、乾かして用いる)すると住い。)現代語訳:島田勇雄,竹島淳夫,樋口元巳訳注,平凡社-東洋文庫(1991)」
とある.益軒より北の大坂にいた良安の處では,当時はまだオシロイバナは越年できなかったのであろう.開花時期を正しく夕から翌朝とし,花の形状も詳しい.胚乳より得られた粉を婦人が顔に塗った場合,一般的に使われていた鉛白(えんぱく,塩基性炭酸鉛)より光沢がよいと,実際に「白粉」として使われていたとある.更に,葉や胚乳の精製品の薬効についても述べている.

一方,同書の巻第九十四之末 濕草類には,
火炭母草(くはたんぼさう)(ホウタンモウツアロウ)
本綱、火炭母草は原野の中に生ず。茎赤くして柔らかに,細蓼に似て葉の端尖り、梗に近き形方なり。夏白き花有りて秋実る.椒の如く青黒色なり。味甘くして食ふべし。(葉の味酸く平なり。毒有り)
△按ずるに、蓼類にして炭と為して能く燼を保つ。蓋し此の草,蓼の類にして特に火母の功有るか。
(火炭母草 かたんぼそう ホウタンモウツアロウ
『本草綱目』に、火炭母草は原野の中に生える。茎は赤く柔らか。細蓼に似ていて葉の端は尖り、梗(くき)に近いところは方形である。夏に白花が開いて秋に実がつく。実は椒(さんしょう)のようで青黒色。味は甘くて食べられる〔葉の味は酸、平で毒あり〕、とある。
△思うに、蓼類は炭にするとよく燼(おき)を保つ。おもうにこの事は、蓼類のうちでも特に火母としての効能があるのであろうか。 現代語訳:島田勇雄,竹島淳夫,樋口元巳訳注,平凡社-東洋文庫(1991))」

火炭母草と白粉草は別項にあり,火炭母草は蓼類の一種としている.従って寺島良安は既にオシロイバナ≠火炭母草と公表しているが,この認識は廣くは共有されなかった.

橘保国『画本野山草』 錦帯花 NDL
橘保国『画本野山草』巻之一(1755)には「錦帯花 一名夕錦草(ゆうにしきさう) 
葉、当椒(とうがらし)に似たり。葉に大小有。はなは、山さくらに似たり。又花の茎長くして、はるか下に台あり。花のいろ、黄あり、又紅有、半黄半紅あり、とびいりあり。一本のうちに、いろいろ有。また、黄ばかり、べにばかりあり。葉、むかひあひ出て、えだも両方へはびこる。はな、七八月にさくなり。」
と,花が単色ではなく,黄と紅の半分づつの咲きわけや,斑入り,更には一本の株でも種々の色や模様の花が咲くこと,葉が対生であることも観察している.
『廣倭本草』 NDL

直海元周(龍)『廣倭本草』巻之三(1759)には,
火炭母草 和名ヲシロイ花--義三---會云火炭母草生-州原--味酸平無毒去-風熱流注骨節癰腫痛莖赤而柔ナリ有白花秋實如菽黒色味甘可又云花紅黄白三種共根似タリ烏藥コレ即今ノヲシロイバナナリ仙臺ニテハ秋ザクラトモ云ナリ」とある.

漢名とされた「火炭母草」は『本草綱目』草之五 隰草類下に「火炭母草 (宋《圖經》)
【集解】頌曰生南恩州原野中。莖赤而柔,似蓼。葉端尖,近梗形方。夏有白花。秋實如菽,青黑色,葉甘可食。
葉【氣味】酸,平,有毒。
【主治】去皮膚風熱,流注骨節,癰腫疼痛。不拘時采,於 器中搗爛,以鹽酒炒,敷腫痛處,經宿一易之(蘇頌)。」とある植物である.
明王圻『三才圖會』 NDL

一方『廣倭本草』に引用されている
明王圻纂集『三才圖會』(1609)には 「火炭母草
火炭母草生南恩州原野中味酸平無毒去皮膚風熱流注骨節腫痛莖赤而柔似蓼葉端尖近梗形方夏有白花秋實如菽黑色味甘可食不拘時採葉」とある.

直海は『本草綱目』,『三才圖會』どちらにもある「似蓼葉」をオシロイバナの葉の形状に合わないからだろうが,「似蓼葉」と変えている.
日本の本草家が考定した植物に『本草綱目』の【集解】の記述に合わないからといって,『本草綱目』の誤りとする例が時々見受けられる.

「直海について『国書人名辞典』は、本草家。越中の人、京都、大坂に住し、のち故郷に帰った。松ある.岡恕庵門で戸田旭山とも親しく交わった。著書に『衡斎本草』、『広倭本草』(宝暦5年)、『産物筆談』、『班荊間譚』(寛延元年刊)、原本の確認が出来なかった物として『鸚哥譜』、『分量則』を挙げる。生没年は未詳とするが著作より宣長より年輩者であることは確実。また『平安人物志』(明和5年版)には、「武川順、字建徳、号黄山、室町四条下ル丁、武川幸順」と並んで「直海龍、字元周、号衡斎、両替丁二条下ル丁、直海元周」と見える(『近世人名録集成』1-4)。

『森銑三著作集』に拠れば、雪舟画富士図を所蔵(同書・4-298)し、戸田旭山が宝暦10年(1760)4月15日浄安寺で開催した薬物会の記録『文会録』に武林尚白と序文を寄せる。因みに跋文は平賀源内と坂本蜂房である(同書・5-148)。また、直海龍は評判の良くない学者で、その著『広大和本草』も評判が悪いが、この書は、娘の婚礼で金子入用になった直海が、兼ねて本屋より依頼のあった本書を一夜にして書いたと言う一奇談があることを『典籍作者便覧』に載せると言う(同書・10-505)。宣長の『雑鈔』第1冊(宣長全集:18-592)に「日用食物物産」を、『本居宣長随筆』第2冊(宣長全集:13-79)にも「直海氏考」を引く。また『在京日記』宝暦7年(1757)3月3日条にも出る。『経籍』に「広大和本草【ワ、直海元周】」(宣長全集:20-625)が載る。木村蒹葭堂と交友のあったこと『木村蒹葭堂のサロン』中村真一郎著に載る。」(本居宣長記念館,本居宣長 年譜,宝暦5年9月13日 (1755/10/18)記事注釈)

小野蘭山・島田充房『花彙』1765刊)初編,草之三(1763完)には,特徴をよくとらえた雄渾な木版と共に,
火炭母草(クハタンボサウ) オシロヒバナ     
小野蘭山『花彙』 火炭母草 NDL
-時種ヲ下シテ即チ生ス長ジテ苗高サ三--尺ニイタル 圓-茎節-々泡-腫(フクレ)シテ八--香(シウカイダウ)及ビ通--杖(イノコヅチ)ノ輩ニ似タリ 毎-節枝ヲ分チ両-葉相ヒアタル 葉ハ丁---苗(ハリアサガホ)及ビ白--菜(ヒユ)ニ類シテ尖-滑(トガリヒカル)ニシテ淡緑-色ナリ 秋花ヲ開キ枝-梢ニ簇ス 形チ假--子花(アサガホ)ニ似テヤヽ小ナリ 中チ長-鬚ヲ吐キテ高ク出ヅ 百--紅(トウギクノ)花-鬚(シベ)ノ如シ ソノ色紅--白數-品アリ 或ハ二-三間-色(トビイリ)ノ者アリ 實(ミ)ノ形チ胡-辛(コセウ)ノ如ク生青ク熟シテ黒-色 内ニ白-粉アリ 秋深テ苗スナハチ枯-委(カル)ス」とある.江戸時代第一の本草学者蘭山の観察は的確で,種々の植物との類似性を用いて形状を記述している.

岩崎灌園『本草図譜』 火炭母草
NDL

蘭山は,直海元周と同じく,「火炭母草=オシロイバナ」と考定したが,この考定は,本人★小野蘭山の『本草綱目啓蒙』によって疑義ありとされ(次記事),
さらに,★岩崎灌園『本草図譜』(刊行1828-1844) 巻之十七,濕草類八では「火炭母草」は「たにたで」と考定され,「火炭母草に先輩おしろいを充つるは誤りなり今新たに此を注す」とされた(左図,NDL).
さらに,★白井光太郎(監修),鈴木真海(翻訳)『頭註国訳本草綱目』(1929)春陽堂 の「火炭母草」の項では「牧野曰フ,是ハ正ニつるそばデアル,其莖赤ク柔カク其葉末尖ツテ葉ノ底部ガ方形ヲナシ,白花,黒實ノ狀文筒ナレドモ能ク其實狀テ捕捉シテイル」と牧野富太郎によって注され,現代中国ではこの説「火炭母草=タニタデ(Polygonum chinese)」が受け入れられている.


『花彙』はまず宝暦9年(1759)に,松岡玄達の弟子島田充房(号は雍南,生没年未詳)が「草之一」「草之二」を出版,ついで兄弟弟子だった小野蘭山(17291810)が宝暦13年(1763)に「草之三」「草之四」「木之一」~「木之四」を追加して完成させ,明和2年(1765)に8冊本として刊行した.
NDL


★松平秀雲『本草正譌巻之一(1776) 
火炭母草 和産未見或云俗ヲシロイト云物是ナリ」(右図 NDL)

松平君山*(秀雲)(1697-1783)は江戸時代中期の儒者.尾張(おわり)名古屋藩書物奉行.藩命で『士林泝洄(そかい)』『張州府志』を編集.著作はほかに注疏『孝経直解』,本草,詩文『三世唱和』など多数.
『本草正譌』は,明の李時珍の『本草綱目』をとりあげ,君山自身の見聞をもって考察弁明したものである.『本草綱目』は不朽の名著ではあるが,著者が多病なため,文献本位に傾く欠陥もあった.また,我国でも,貝原益軒・松岡恕庵などの著書が行われているが,独断に出づる説が少くない.君山は,それらの正論を志して,老躯を啓蒙にささげたわけであるが,さすが一代の大家だけに,本書の編集も大がかりなもので,門下の秀才が給動員された観がある.
本書刊行の意義は,徒らに先人の説に依存していた斯界に一大警告を与えたもので,画期的な著述といえる.

★山岡恭安『本草正々譌 草部』(1778)*
火炭母草 ヲシロイバナ、或云、ヲシロイ 花鏡ノ紫茉莉ナリト、未詳』

君山*の『本草正譌』に対する反論である.その動機は,ことさら先輩の説に異を立てたというほどではなく,すでに書き上げてあった『本草和産考』のうちから,(特に草木部で)所見を異にするものを摘出して世に問うたものといわれる.
*名古屋市教育委員会『名古屋叢書 第十三巻 科学編』より部分引用

オシロイバナ-2 江戸時代-2 紫茉莉,本草綱目啓蒙,重刻秘伝花鏡,物品識名,梅園草木花譜,薬品手引草,和蘭六百薬品図

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