2014年8月20日水曜日

ヒャクニチソウ-3 随筆 閑村,子規,綺堂,河上肇,宮本百合子,岡本かの子,原田光子

Zinnia elegance
2014年 7月
ヒャクニチソウ(百日草)を取り上げた文芸作品は数多いが,そのいくつかを紹介する.
閑村の作は花言葉をモティーフにしているだけで,見るべきものではない.子規の庭には,鴎外から贈られた種からはヒャクニチソウだけが芽吹いたと,その強健さがうかがえる.
綺堂は,園芸家には笑われるが,色鮮やかで花期が長いヒャクニチソウに爽快感さえ感じて非常に愛すると告白している.
河上肇は放翁(中国南宋(1213世紀)の詩人・陸游)の引退後の東籬(庭)にあこがれながら,庭には無花果と紅梅,そして竹を少々植え,余地には「百日草、桔梗、芍薬、牡丹、けし、さうした昔から日本にある種類の」「草花を一面に植ゑたい。」と記している.彼の中では幕末の渡来種でありながら,百日草が日本の風土に溶けこんでいたのであろう.
吉井勇は,入院時の6月にはまだ「黒い鱗形のある蕾」であった百日草が,退院した8月には「ちょうど花の真っ盛りの時で、なんだか西陣あたりで出来る織物の精巧なものを見てゐるやうに思われて美しかった。」とその旺盛な生命力の発露が,自分の回復を祝福するように思われたのであろう.

女性文学者の見方は興味深い.宮本百合子は百日草の花は派手ながら,洗練されていない,暑苦しい花と捉えているようだが,岡本かの子は,現代女性の社会進出のためには,あきらめない事が重要だとの認識からか,桜や牡丹のような「直ぐ散ってしまう花には同情が持てない。枯れてもしがみ付いている貝細工草や百日草のような花に却って涙がこぼれる。」とエールをおくる.
百日草の文として出色なのは,クララ・シューマンなどの音楽研究家として名高い原田光子の,没後刊行された『美の愉しさ 随筆集』中の百日草であろう.若いうちは派手で逞しく無神経と思っていた花が,30才を過ぎてからは,逞しく強烈なる故に、ひとしお寂しく深い味のある花と思われるようになった.との感慨は女性として成熟し,この花に自分の人生を重ね「己を識つた三十女の烈しい意欲の情熱」を感じたかったからであろう.ただ,残念ながら,彼女の感慨に反して,ヒャクニチソウは古代オリエントには,ましてや飛鳥には知られていなかった.

平岡閑村『旅路の菫 : 抒情小曲』集文堂(大正15, 1926
花言葉 百日草  別れた友を思ふ
百日草
静かに更け行く/秋の夜の/机上に淋し/百日草
今日も忘れで/過ぎし日の/いとしき君を/物語る
静かに更け行く/秋の夜に/ひとり淋しく/物語る

正岡子規(1867-1902)『小園の記』「ホトトギス」[1898(明治31)年]
我に二十坪の小園あり。園は家の南にありて上野の杉を垣の外に控へたり。場末の家まばらに建てられたれば青空は庭の外に拡がりて雲行き鳥翔る様もいとゆたかに眺めらる。始めてこゝに移りし頃は僅に竹藪を開きたる跡とおぼしく草も木も無き裸の庭なりしを、やがて家主なる人の小松三本を栽ゑて稍物めかしたるに、隣の老媼の与へたる薔薇の苗さへ植ゑ添へて四五輪の花に吟興を鼓せらるゝことも多かりき。
(中略)
 去年の春彼岸やゝ過ぎし頃と覚ゆ、鴎外漁史より草花の種幾袋贈られしを直に播きつけしが百日草の外は何も生えずしてやみぬ。中にも葉鶏頭をほしかりしをいと口をしく思ひしが何とかしけん今年夏の頃、怪しき芽をあらはしゝ者あり。去年葉鶏頭の種を埋めしあたりなれば必定それなめりと竹を立てゝ大事に育てしに果して二葉より赤き色を見せぬ。嬉しくてあたりの昼照草など引きのけやう/\尺余りになりし頃野分荒れしかばこればかり気遣ひしに、思ひの外に萩は折れて葉鶏頭は少し傾きしばかりなり。扶け起して竹杖にしばりなどせしかば恙なくて今は二尺ばかりになりぬ。痩せてよろ/\としながら猶燃ゆるが如き紅、しだれていとうつくし。二三日ありて向ひの家より貰ひ来たりとて肥え太りたる鶏頭四本ばかり植ゑ添へたり。そのつぐの日なりけん。朝まだきに裏戸を叩く声あり。戸を開けば不折子が大きなる葉鶏頭一本引きさげて来りしなりけり。朝霧に濡れつゝ手づから植ゑて去りぬ。鶏頭、葉鶏頭、かゝやくばかりはなやかなる秋に押されて萩ははや散りがちなりしもあはれ深し。薔薇、萩、芒、桔梗などをうちくれて余が小楽地の創造に力ありし隣の老嫗は其後移りて他にありしが今年秋風にさきだちてみまかりしとぞ聞えし。
ごて/\と草花植ゑし小庭かな

岡本綺堂(1872-1939)『我が家の園芸』(昭10・3「サンデー毎日」, 1935
桔梗(ききょう)や女郎花(おみなえし)のたぐいは余り愛らしくない。わたしの最も愛するのは、糸瓜と百日草と薄(すすき)、それに次いでは日まわりと鶏頭(けいとう)である。
 こう列べたら、大抵の園芸家は大きな声で笑い出すであろう。岡本綺堂という奴はよくよくの素人で、とてもお話にはならないと相場を決められてしまうに相違ない。わたしもそれは万々(ばんばん)承知しているが、心にもない嘘をつくわけには行かないから、正直に告白するのである。まあ、笑わないで聴いて貰いたい。
(中略)
 次は百日草で、これも野趣に富むがために、一部の人々からは安っぽく見られ易いものである。梅雨のあける頃から花をつけて、十一月の末まで咲きつづけるのであるから、実に百日以上である上に、紅、黄、白などの花が続々と咲き出すのは、なんとなく爽快の感がある。元来が強い草であるから、蒔きさえすれば生える、生えれば伸びる、伸びれば咲く。花壇などには及ばない、垣根の隅でも裏手の空地でも簇々(そうそう)として発生する。あまりに強く、あまりに多いために、ややもすれば軽蔑され勝ちの運命にあることは、かの鳳仙花(ほうせんか)などと同様であるが、わたしは彼を愛すること甚だ深い。
 炎天の日盛りに、彼を見るのもいいが、秋の露がようやく繁く、こおろぎの声がいよいよ多くなる時、花もますますその色を増して、明るい日光の下(もと)に咲き誇っているのは、いかにも鮮(あざや)かである。しょせんは野人の籬落(まがき)に見るべき花で、富貴の庭に見るべきものではあるまいが、われわれの荒庭には欠くべからざる草花の一種である。
(後略)

河上肇1879-1946閉戸閑詠 第一集 起丁丑七月 尽辛巳十月』
〔昭和十二年(一九三七)〕
野翁憐稚孫
余この歳六月十五日初めて小菅刑務所より放たる
膝にだく孫の寝顔に見入りつつ庭の葉陰に呼吸ついてをり
                       七月七日

〔昭和十四年(一九三九)〕
(中略)
ことし春の彼岸、郷里より取寄せて百日草、風船かづら、花びし草、朝鮮朝顔などの種子を蒔けり。庭狭ければ思ふに任せざれども、この頃いづれもそくばくの花をつけたり。中につき百日草は、祖母の住み給ひし離家の庭前に咲き乱れ居るを、幼時より見慣れ来し花なれば、ひなびたれどもいと懐し
ふるさとの種子と思へばなつかしや百日草の庭隅に咲く
                      八月七日
(後略)

国立国会図書館
河上肇小国寡民』(昭和二十年九月一日稿)「思ひ出 : 断片の部・抄出」,日本民主主義文化連盟(1946(昭和21)年)
「小国寡民
放翁東籬の記*にいふ、「放翁告帰(退官して隠居すること)の三年、舎東の茀地(草の生ひしげれる土地)を闢く。南北七十五尺、東西或ひは十有八尺にして贏び、或は十有三尺にして縮まる。竹を挿んで籬と為す、其の地の数の如し。五石瓮(かめ)を藝め、南北七十五尺、東西或ひは十有八尺にして贏び、或は十有三尺にして縮まる。竹を挿んで籬と為す、其の地の数の如し。五石瓮(かめ)を藝め、泉を潴めて池と為し、千葉の白芙蕖()を植う。又た木の品若干、草の品(品は類といふほどの意)若干とほさきを雑え又た木の品若干、草の品(品は類といふほどの意)若干とほさきを雑え植う。之を名けて東籬と曰ふ。放翁日に其間に婆娑(歩き廻はること)、其の香を接り以て臭ぎ、其の潁を擷み以て玩ぶ。朝には灌ぎ、莫には組す。凡そ一甲埒(草木の新芽を包める薄き皮の開けること)一敷栄(花のしげり咲くこと)、童子皆な来り報じて惟だ謹む。放翁是に於いて本草を考へ、以て其の性質を見、離騒を探り以て其の族類を得、之を詩爾雅及び毛氏郭氏の伝に本づけ、以て其の比與を観、其の訓詁を窮め、又た下っては博く漢魏晋唐以来を取り、一篇一詠も遺す者なく、古今体制の変革を反覆研究す。
間亦た吟諷して長謡、短章、楚調、唐律を為り、風月煙雨の態度に酬答す。蓋し独り身目を娯み、暇日を遣るのみにあらず。昔は老子書を著し末章に曰ふ、「小国寡民、其の食を甘しとし、其の服を美しとし、其の居に安んじ、其の俗を楽む。隣国相望みて、雞犬の声相聞ゆるも、民、老死に至るまで相往来せず。」と。其の意深し矣。老子をして一邑一聚を得せしめば、蓋し真に以て此を致すに足らむ。於庠、吾の東籬、又た小国寡民の細なる者か。開禧元年四月乙卯記す。」

*東籬 陸遊《東籬記》:“放翁告歸之三年,闢捨東茀地,南北七十五呎,東西或十有八呎而贏,或十有三儘/盡而縮,插竹為籬。如其地之數,薶五石甕,潴泉為池,植韆葉白芙蕖,又雜植木之品若,草之品若,名之曰東籬。放翁曰婆娑其間,掇其香以臭,擷其穎以玩。朝而讙,暮而鉏。凡一甲坼、一敷榮,童子皆來報惟謹。放翁于是攷本草以見其性質,探離騷以得其族類,本之詩而雅,及毛氏郭氏之傳,以觀其比興,窮其訓詁,又下而博取漢魏晉唐以來,一篇一詠無遺者,反復研究古今禮製之變革,間亦吟諷為長謠短章、楚調唐律,酬答風月煙雨之態度,蓋非獨身目,遣暇日而已。昔老子著書末章:自小國寡民,自甘其食,美其美,安其居,樂其俗。鄰國相望,雞犬之聲相聞,民至老死不相往來。’其意深矣!使老子而得一邑一聚,蓋真足以至此,于虖吾之東籬,又小國寡民之細者歟!開禧元年四月乙卯記。”

私はこの一文を読んで、放翁の年に於ける清福を羡むの情に耐へない。私は元から宏荘な邸宅や華美な居室を好まないが、殊に晩年隠居するに至つてからは、頻りに小さな室が二つか三つかあるに過ぎない庵のやうな家に住みたいものと、空想し続けてゐる。(中略)
 放翁は更に樹木の類若干と草花の類若干とを雑へ植ゑたと云つてゐるが、これこそ私の最も真似したく思ふところである。私は大学生時代、下宿に居た頃には、縁日で売る草花の鉢をよく買つて来て、机の上や手摺のあたりに置いて楽んだものである。その頃、そんなことをする仲間は殆ど一人も居なかつたので、君は花が余程すきだと見えるなと、人から云はれ/\してゐたものだ、今、晩年に及んで、もし私をして好む所を縦まにするを得せしめたなら、私は自分の書斎を取巻くに様々なる草花を以てするであらう、私は松だの木槲だのを庭へ植ゑようとは思はない。総じて陽を遮る樹木の類は、無花果だけは私の好物なので例外だが、なるべく少いのが望ましい。紅梅の一株、たゞそれだけで事は足りる。花もつけず実もつけないものでは、私はたゞ竹だけを愛する。しかしそれも脩竹千竿などいふやうな鬱陶しいものは、自分の住ひとしては嫌ひだ。書斎の丸窓の側に、ほんの二、三本の竹があればよいと思つてゐる。その余の空地には、人為的な築山など作らず、石燈籠なども置かず、全部平地にしてそこへ草花を一面に植ゑたい。草花といつても、私は西洋から来たダリヤなど、余り派手なものは好まない。百日草、桔梗、芍薬、牡丹、けし、さうした昔から日本にある種類のものが好ましい。さうはいふものの、今の私にとつては、死んでしまふまで、たとひどんな小さな庵にしろ、自分の好みに従つて経営し得るやうな望みは絶対にない。たゞ放翁の文など読んでゐると、つい羨ましくなつて、はかなき空想をそれからそれへと逞くするだけのことである。
 放翁の東籬は羨ましい。だが、老子の小国寡民はまたこれにも増して羨ましく思はれる。
(後略)
げにコーカサスこそは、老子の「小国寡民、其の食を甘しとし、其の服を美しとし、其の居に安んじ、其の俗を楽む」と言へるものの模型と謂つて差支あるまい。私は宏荘な邸宅に住むよりも、小さな庵に住むのを好むと同じやうに、軍国主義、侵略主義一点張りの大国の一員たるよりも、かうした小国寡民の国の一員たることを、寧ろ望ましとする人間なので、これから先きの日本が、どうなるか知らないが、ともかく軍国主義が一朝にして崩壊し去る今日に際会して、特殊の喜びを感ぜざるを得ないのである。
 あゝコーカサス! 京都の市民の数倍にも足らぬ人口から成る小さな/\共和国、冬暖かに夏涼しく、食甘くして服美しく、人各々その俗を楽しみその居に安んずる小国寡民のこの地に無名の一良民として晩年書斎の傍に一の東籬を営むことが出来たならば、地上における人生の清福これに越すものはなからうと思ふ。今私はスターリンやモロトフ等の偉大さよりも、窃に、これらの偉人によつて政治の行はれてゐる聯邦の片隅に、静かに余生を送りつゝあるであらう無名の逸民を羨むの情に耐へ得ない。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043595)(http://www.aozora.gr.jp/cards/000250/files/4299_14360.html

吉井勇(1886 - 1960)『随筆 百日草』桜井書店, 1943(昭和18)年
百日草
私の今住んでいる白河の里は,昔から名高い花賣女の出るところで,今でも花畑がかなり多い.朝になると飛び白の三布の前掛けを締め,脚絆に草履がけといふ身ごしらえの,大原女と同じやうな姿をした女房や娘が,頭の上には佛に供へる美しい花切を,一杯積んだ籠を載せて,町中の方へ出かけてゆく.(中略)
さういつた花の中でも,私はここに来てから知った百日草の花に,何となく心を惹かれてゐたのであるが,今度入院するやうになつた六月のはじめには,まだ黒い鱗形のある蕾を,穂の尖に附けてゐるだけで,花を見ることは出来なかつた.しかし八月に入ってから,六十一日ぶりで退院して帰ってきて見ると,それは丁度花の真っ盛りの時で,何だか西陣あたりで出来る織物の精巧なものを見てゐるやうに思われて美しかった.
   黒い鱗形のある蕾
それで今度命拾ひをした再生紀念として,病気が快くなりかけた六月二十一日から,手術のために再入院をする前日の九月二十八日まで,百日間の日記的随筆を集めるに當り,「百日草」と題したも,不圖その美しい花を思ひ出したためなのであって,別に深い意味があるわけではない.
以上後記代わりとして,この随筆集に「百日草」と題した所以をしるして置く.(九月二十八日)

岡本かの子(1889-1939)『現代若き女性気質集』「岡本かの子全集 第十二卷」冬樹社,1976(昭和51)年920日初版第1刷発行
 これは現代の若き女性気質の描写(びょうしゃ)であり、諷刺(ふうし)であり、概観(がいかん)であり、逆説である。長所もあれば短所もある。読む人その心して取捨(しゅしゃ)よろしきに従い給(たま)え。
(中略)
  牡丹(ぼたん)や桜のように直ぐ散ってしまう花には同情が持てない。枯(か)れてもしがみ付いている貝細工草(かいざいくそう)や百日草(ひゃくにちそう)のような花に却(かえ)って涙がこぼれる。
(後略)

宮本百合子(1899-1951)『一本の花』「改造」1927(昭和2)年12月号
        四
 続いて二日、秋雨が降った。
 夜は、雨の中で虫が鳴いた。草の根をひたす水のつめたさが、寝ている朝子の心にも感じられた。
 晴れると、一しお秋が冴えた。そういう一日、朝子は荻窪に住んでいる藤堂を訪ねた。雑誌へ随筆の原稿を頼むためであった。
 ひろやかに庭がとってあって芝が生え、垣根よりに、紫苑、鶏頭、百日草、萩、薄などどっさり植っていた。百日草と鶏頭とがやたらに多く、朝子は目の先に濃厚な絨毯を押しつけられたように感じた。
(後略)

宮本百合子(1899-1951)『町の展望』「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社、1981(昭和56)年530
 町から、何処に居ても山が見える。その山には三月の雪があった。――山の下の小さい町々の通りは、雪溶けの上へ五色の千代紙を剪りこまざいて散らしたようであった。製糸工場が休みで、数百の若い工女がその日は寄宿舎から町へぶちまけられた。娘、娘、娘、素朴でつよい百日草のような頬の娘達が、三人ずつ、五人ずつ到るところに動いて居る。共同温泉が坂のつき当りにパノラマ館のようなペンキの色で立って居た。入口のところで、久しぶりに悠(ゆっ)くり湯で遊んで来た一人の小娘が、両膝の間でちょっと風呂敷包を挾んだ姿で余念なく洗髪に櫛を通して居た。髪はまだ濡れて重い。通りよい櫛の歯とあたたかそうな湯上りの耳朶を早い春の風が掠める。……空気全体、若い、自由を愉しむ足並みで響いて居るようであった。今日は書き入れ日だ! プーウ、プカプカ、ドン、プーウ。活動写真館の音楽隊は、太鼓、クラリネットを物干しまで持ち出し、下をぞろぞろ通る娘たちを瞰下しつつ、何進行曲か、神様ばかり御承知の曲を晴れた空まで吹きあげた。
(後略)

原田光子(1909-1946)『美の愉しさ 随筆集』北斗書院, 1947(昭和22)年
「百日草
百姓家の裏庭や片田舎の停車場の柵のあたりに、夏になるとよく咲いてゐる平凡な草花であるが、この花の個性的な不思議な美しさに氣づいたのは最近である。熱帯地方の花を想はせる、毒毒しいまでに強烈な色彩も、線が堅くて強靭そのものゝ花辧や莖も、私の感覺にはあまりに逞しくあくどく思われて、眞夏の烈しい太陽の光りにたじろぎもせず眞直に空を向いて咲いてゐるこの花には、ついぞ親しみを感じたことがなかつたのである。形の單純で整つた花も色彩も、なんとなく佛くさい花であることも、頭からあつかましい花だと毛嫌ひして、よく観察しようとしない原因だつたかもしれない。百日草叉は千日草と云はれるやうに、一度咲いたら永く散らず、何處にでも育つし、切花にしても丈夫でほつたらかしておいても容易に萎れないから、仏壇に備ヘるに極めて實用的であるから、色彩感が幼稚で、配色に無關心な人々が、あのあくどい赤い色をも平氣で植ゑてゐるのだと、勝手にきめこんでゐたのであつた。
 ところが近年私はこの花に對する考へをすつかり變へてしまつた。逞しく強烈なる故に、ひとしほ寂しく深い味のあるこの花の風情に、いつとなく目醒めたのは、私が三十になつて此の世の儚さと苦しさと、人間の救い難い弱さを識り、なほも眞實に何ものにもめげず明く生きてゆく信念の強さを求めるやうになつたからかもしれない。百日草には人生が薔薇色に思はれる、夢見る乙女の可憐な美しさは求められないが、己を識つた三十女の烈しい意欲の情熱が感じられる。
 百日草の花と莖や葉のつくる極めてシンメトリカルな美は、一寸見ると日本的な花の美しさではなくて、インド的なペルシャ的な遠く西亜地方の香を持ってゐる。印度更紗の圖案のモティーフにしたいやうな花なのである。平安期以降文學に現われたところによると、日本人は櫻や梅、菊桐の如く高貴な花は別にとして、萩、藤、山吹、秋の七草など、どつちかといえばものゝ哀れをたたへた、淡く床しい曲線的な花の美を好む傾向があるのだが、一度目を遠くはるかなる飛鳥、白鳳、天平時代にむけると、灼熱の太陽に向かつて首をもたげてまじろぎもせず咲くこの花の強い美が生き/\と耀いてくるやうな氣がする。白と朱の堂々として單純な古代の建築を背景に、ゆるやかな衣をまとつた健康で明るい飛鳥乙女が、百日草の花を一輪手にした姿は、想像するだに豊かでおゝらかな情景である。そんなことを空想してゐると正倉院の御物の裂地の中にも、有名な鶏頭を圖案化した錦*などとともに、百日草を圖案化したしたものなど或はまじつてゐるのではなかといふような氣までしてくる。
 群がつて咲いていたり、束にしたり、他の花と活けたりすると、毒々しくつてなじめぬ花であるが、あまり大輪でないのを一輪か二輪、ふいりの萱の細葉数本を添へて、無造作に竹籠に活けたりすると、心にくいまでにすつきりとした野趣が溢れてきて愉しい。百日草の八重のものがあるが、これはこの花のあくどさを強調して一層見る人をやりきれなくさせる。あまり土のよくない納屋の裏などに咲いて花も小さく、莖も風にまがつたやうなのが、活けるとかへつて趣があるのである。(十七年八月)」
*鶏頭金襴 鶏頭の花のような、作土文様(作土(つくりつち)草花紋や草花動物紋に、その根付いた土壌までを単一の紋様として配したもの)を並べた図柄の布(上図,東京国立博物館)

ヒャクニチソウ-4 美術・短歌・俳句

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