2014年12月21日日曜日

センニチコウ-6/6  欧州の植物図譜 (3).デクルタル,カーチス,ワイト,ステップ

Gomphrena globosa
2007年7月
熱帯アメリカが原産地とされるこの植物は,日本には中国から天和から次の貞享のころ(1681-88年)に渡来したとされている(Blog-1).
一方,欧州に渡来した明確な年を示した文献は見出せなかった.しかし,コスモスやヒャクニチソウより約一世紀早く17世紀末には,インドから来た植物としていくつかの植物誌・植物図譜に取り上げられている.学名をつけたリンネもインド産としていてBlog-3),熱帯アジアでは早くから広く分布していたのであろう.
英国には 1715 年に渡来したとされており,日本への渡来は英国より早く,欧州大陸とほぼ同時期ということになる.

8                Descourtilz, M. E.,“Flore médicale des Antilles”, vol. 5 t. 320 (1827)
“Flore médicale des Antilles, ou, Traité des plantes usuelles :des colonies Françaises, Anglaises, Espagnoles et Portugaises /par M. E. Descourtilz ; peinte par J. Th. Descourtilz.”

AMARANTHINE GLOBULEUSE.( Rafraîchissante aqueuse.)
Physical characteristics This species is the prettiest of this kind; stems are high with a foot and a half straight, articulated, a little hairy, leafy, sometimes simple, and usually lined with twigs courts, opposing, uneven and axillary; its leaves are opposite, ovate, lanceolate, entire, green, soft and pubescent. The flowers are born on top of the stem and branches, arranged in globular head, including the base has two opposite and sessile bracts. These flower heads appear dry and arid to touch: they are bright purple, which makes them stronger nice to see.
Chemical analysis. The flowers provide color carmine coloring material I have in vain tried to fix a little resin, mucilage (粘液) and gum.
Medicinal properties. I do not have a lot of comments on this plant which seems rather pleasant than useful; I need only say that it enjoys the reputation Colonial refreshing plants.

デクルタルの図版は見出せた古い図譜の中で,唯一中南米で観察されたセンニチチコウを写生した図である.他は全てインド及びその周辺,または欧州の庭園で見られたものの図.有用性としてはその美しさで人々を慰めるだけで,化学分析も行ったが,樹脂と粘液しか検出できなかったとしている.

デクルタル(ミッシェル・エチエンヌ,Michel Étienne Descourtilz,  1775 –1835)はフランス生まれの医師・植物学者でハイチ革命*を目撃した歴史家.母国で医学修行を終えた1799年に,北米大西洋岸南部を経由して,当時フランスの植民地であったアンティレス諸島のハイチに到着.外科医師であり Toussaint Louverture** のパスポートを持っていたにもかかわらず,革命の際,何度か命の危険にさらされた.彼の植物標本は主にPort-au-Prince Cap-Haïtien の間,及びArtibonite 川の流域で採集された.彼の自然史の全てのコレクション及び多くの図はハイチ革命の際に失われた.1803年にフランスに戻り,Beaumont の医師として働き,またパリのリンネ協会の会長を務めた.この,アンティレスの薬用植物の図を描いたのは息子のJean-Theodore Descourtilz (1796 –1855) で,彼はパリで1834年に出版したブラジルの鳥類図譜 “Oiseaux brillant du Bresil” でよく知られている.

*ハイチ革命(仏:Révolution haïtienne, 1791 - 1804年)は、西半球で起こったアフリカ人奴隷の反乱の中でも最も成功した革命。これにより、自由黒人の共和国としてハイチが建国された。革命が起こった時、ハイチはサン=ドマングと呼ばれるフランスの植民地であった。この革命によって、アフリカ人とアフリカ人を先祖に持つ人々がフランスの植民地統治から解放されただけでなく、奴隷状態からも解放された。奴隷が世界中で使われていた時代に多くの奴隷の反乱が起こったが、サン=ドマングの反乱だけが成功し、全土を恒久的に解放できた。(from J. Wiki
**トゥーサン・ルーヴェルチュール, フランス革命期のハイチの独立運動指導者(from J. Wiki

9            “Curtis’s Botanical Magazine”, vol. 55 [ser. 2, vol. 2] t. 2815 (1828)
GOMPHRENA GLOBOSA. ANNUAL GLOBE
Introduced into Britain from the East Indies so long ago as the year 1714, and extensively cultivated as a favourite ornamental plant in the gardens of the rich, and in the windows of the poor cottagers ; yet so far neglected by the Botanist, that it has not been honoured with a figure in any British publication that has come within my observation. The structure and colour and texture of the flowers when accurately examined are highly beautiful, but, like those of the Class SYNGENESIA, require nicety and care in the dissection and analysis. The generic name is altered from Gromphena (γραφω, to paint) which PLINY applied to the Three-Coloured, or Painted Amaranth, a plant naturally allied to this. Both possess floral coverings of that peculiarly dry and imperishable nature as to have merited the name of Everlasting, and hence they are considered in many countries as the emblems of friendship. In the East Indies the common Globe-flower is formed into garlands to ornament the hair, and to adorn instruments of music at the festivals : and in the South of Europe, for the plant is now cultivated in almost every part of the world, churches are decorated with it in the winter.
As a tender annual, the GOMPHRENA globosa requires to be raised in a hot-bed, and planted out during the summer.
現在でも刊行されていて,最も歴史が長い植物図譜,カーチス Botanical Magazine (創刊,1787)には,「英国へは 1714 年に東インドから導入され,それ以降お金持ちの庭師の庭園や,貧しい人の出窓では装飾植物として好まれていたが,あまり英国の出版物では尊重されていなかった.学名はプレニウスのハゲイトウに由来する.どちらも永久花として永くその美しさを保つ事から多くの国で友情の象徴としてエンブレムの図案とされる.また,東インドでは髪を飾る花輪や祭りの楽器の装飾に用いられる.現在最もこの花の栽培が盛んな南ヨーロッパでは冬の間教会を飾る.英国では温床に種を蒔き夏に戸外に出す」とある.

10          Wight, R., “Icones Plantarum Indiae Orientalis”, vol. 5(2) t. 1784 (1846)
1784. Gomphrena globosa (Linn.), (中略)
Cultivated every where, and known under the English name of Batchelor's buttons, now quite a weed in many gardens.
This plant, properly speaking, does not merit a place in a work on Indian Botany, as it is certainly not indigenous to India, but it seemed desirable to introduce a plant so generally known and by most persons supposed a native; the more so, as it differs so widely in its generic characters from all the Indian genera of the order. Here the filaments are united into a tube with the staminodes, exceeding in length the style and deeply-cleft stigma. In other respects it is a true member of the family.

ロバート・ワイト (Robert Wight, 1796–1872) はスコットランド生まれの外科医で植物学者.1819-1853年の30年以上をインドで過ごした.マドラスの植物園の園長を務め, Rungiah Govindooなど,現地の画家に身近な植物の絵を描かせた.スコットランドに帰国後,1856 年に自ら学んだ石版画の技法でその絵を用いて 6 巻の『東インドの植物画譜Icones Plantarum Indiae Orientalis (Illustrations of the plants of Eastern India) 』にまとめて出版した.この書の中でセンニチコウは,独身者のボタンとあだ名があり,多くの庭で野生化していて,ここが原産地と誤解されている.インドの植物相の中では特に取り上げる価値はないとされている.

11          Step, E., Bois, D., “Favourite flowers of garden and greenhouse”, vol. 3, t. 232 (1897)
GLOBE AMARANTHS
History.
The best known species of Gomphrena is the pretty annual, G. globosa, which was introduced from India in 1714, and has continued in favour ever since. It owes its popularity not to its flowers, but to the persistent coloured bracts, which give the flowerheads the character of an "everlasting" if they are gathered before quite fully mature, and dried in the shade. G. perennis was introduced from South America in 1732, and G. pulchella from Brazil in 1843. These are the principal species in cultivation.

FAVORITE FLOWERS of GARDEN AND GREENHOUSE 庭園及び温室の好ましい花々 1896-7,全4
編集者:EDWARD STEP, F.L.S. and WILLIAM WATSON F.R.H.S.
画家:D. BOIS Assistant de la Chaire de Culture au Museum d'Histoire Naturelle de Paris,

このマガジンは一部3シリング6ペンスという当時高価な価格で計13部が隔週発行され,全部で316枚の図譜が掲載されている.全て腊葉ではなく,生きている植物から D Bois が直接描いた絵は,生き生きとした生命力に富んでいる.ビクトリア時代に歓迎されたこれらの園芸植物は輝かしく彩色され,アラビアゴムでハイライトされている.縮尺も示され,解剖図が付されている図譜もおおく,テキストはかなり長文で学術的な評価も高い.この叢書には,ヤマユリ,ミセバヤ,ツバキなど日本由来の花も多く描かれている.著者は収載した植物の選択基準を, plants which give brilliance and charm to the garden.”といっている.

2014年12月6日土曜日

センニチコウ-5/6. 欧州の植物図譜 (2).リード,コメリン,ヘルマン,ヴァインマン

Gomphrena globosa 
2007年8月
リードのインド西部の植物に関する著作はリンネも高く評価した.その中で,センニチコウは現地語で “WADAPU” と呼ばれると記し,その後この名前は後の文献でもよく引用されるようになった.
4            Rheede tot Drakestein, H.A. van, Hortus Indicus Malabaricus, vol. 10 t. 37 (1690) “WADAPU”(左図)

リード・トット・ドランケンスタインRheede tot Drakenstein, Hendrik Adriaan van, 1636–1691)はオランダ東インド会社の植民地の執政官であり,また博物学者.1670年から40 年近く,西インドのマラバルやコーチン(現在のインド西部,ケララ州近辺)の総督を勤めた.その間, 25人の画家や博物学者,原住民の民俗医を雇って,現地の 740 種もの植物を収載した ”Hortus Malabaricus” 1678-1703, 12 巻)をラテン語・サンスクリット語・アラビア語・ケララ州の一般言語,マラヤーラム語の四言語で刊行した.この著作は 1674年に開始され,1675年には,第一巻の原稿が完成した.1660年ころから会社は自然科学の出版を後押ししたが,リードの有用植物に関する著作は特に風土病対策に有用と考えたからであろう.
オランダの植物学者,次項に述べるヤン・コメリン(Jan Commelin, 1629-1692)は1678年から没するまで,この "Hortus Indicus Malabaricus" の編集を行った。

リンネは『植物の属,Genera Plantarum(1737) に多くのリードの記述を引用し,その「序,Ratio Operis」には, “Hortus Elthamensis” Dillen“Hortus Malabaricus” Rheede そして,アメリカの植物に関する Charles Plumier,この人たち以外の著述家にはあまり信を置かない.この三人のなかでも,Rheede の記述が最も正確である.と記している(右図).


5            Commelin, J., Horti medici Amstelodamensis rariorum tam Orientalis, vol. 1 t. 45 (1697)
Horti medici Amstelodamensis rariorum tam Orientalis, vol. 1: t. 45 (1697)
85C A P . XLV
AMARANTHO AFFINIS INDICAE ORIENTALIS , FLORIBUS GLOMERATIS, OCYMOIDIS
FOLIO. Breyn;Cent. 1., WADAPU Hort. Mal.
“GAùdet háec planta radice fibrosa, catìlem promens bipedálem , ramosum , teretem, pilis breviffimis obsitum, geniculis purpuréis ex intervallis longioribus, ìnterceptum.”

ツユクサ属にその名を残すヤン・コメリン (Commelin, Jan, 1629-1692) は,オランダのアムステルダムで薬種業を営み,その後市議会議員も勤めた有力な市民で,東インドの有用植物を収集・栽培するアムステルダム薬草園(Hortus Botanicus Amsterdam)を設立した.ここに栽培された植物を記した "Catalogus plantorum horti medici Amstelodamensis rariorum” では,リンネより,より現在の分類法に近い英国の植物学者ジョン・レイの分類法に従った.ヤンの死後,この植物園の園長を勤めた甥のカスパル・コメリンCommelin, Casper, 1667?-1731) が完成させ,最終巻は 1701年に刊行された.これには223のモニンクス父娘(Johan  Maria Moninckx)による図版が添えられた(前記事参照,左図).

6            Hermann, P,. Paradisus batavus, LAM5 (1698)
ドイツ生まれの医師,植物学者のパウル・ヘルマンPaul Hermann, 1646-1695)は,15年間ライデン植物園(Hortus Botanicus Leiden)の園長を務めた.パドゥアの医学校を卒業した後,オランダ東インド会社に雇われ,セイロンに派遣され,1672年から1677年まで東インド会社所属の船医を務めた.その間セイロンの植物を精力的に集めた.その後1679年にライデン大学の植物学の教授となり,ライデン大学に当時,ヨーロッパで最良の植物園を設立した.
著書にライデン大学植物園の植物について記述した "Paradisus batavus" があり,それはヘルマンの死後にウィリアム・シェラード (William Sherard, 1659-1728)  によって編集され出版された.シェラードはさらにヘルマンのセイロンの植物に関する原稿をあつめ "Musaeum Zeylanicum" として1717年に出版した.

ヘルマンのセイロンの植物の標本は,リンネが "Flora Zeylanica" (1747) "Species plantarum" (1753) を著す時に参考にされ,リンネの著書では "Hermann herb." と表記され,リンネはへルマンの植物画家としての技術を高く評価した.ヘルマンの標本はその後,多くの人々の所有を経て,後にジョセフ・バンクスが購入し,現在はロンドン自然史博物館で保存されている.

7            Weinmann, J. W., Phytanthoza Iconographia, vol. 1 t 97 (1737)

ドイツ(神聖ローマ帝国)の薬剤師・植物学者のヨハン・ヴィルヘルム・ヴァインマン(Johann Wilhelm Weinmann,日本ではワインマン,ウエインマンとも表記される,1683-1741)は,1737 年から 1745 年の約 年をかけて出版した大著『薬用植物図譜』(Phytanthoza iconographia8』で知られる.この書はメゾチント印刷に手彩色された植物図版で,数千の植物が記載され,1000 以上の図版が収録された.
江戸時代末期にブルマンによる蘭訳書が日本に伝わり,そのいくつかは,岩崎灌園が模写し『本草図譜』に加えられた.

最初の25 (75?) 図の植物学的記述は Johann Georg Nicolaus Dieterichs (1681–1737) が書き,その後は彼の息子の Ludwig Michael Dieterichs (1716–1747) が引き継いだ.ヴァインマンの死後,Ambrosius Karl Bieler (1693–1747) がこの大著を完成させた.

この書はそれ以前の本草書に比べると,彩色された図譜を伴う植物誌として画像の正確性が高く評価されている.

半数ほどの図を描いたのは,その後リンネのために『クリフォード庭園植物誌』の図を描き,大きな名声を得る事になるゲオルク・ディオニソス・エイレット(Ehre t. Georg Dionys, 1706-70)で,この書のために,飢えんばかりの薄給で雇われて図を描いた.ヴァィンマンの待遇は非常に悪かったようで,エイレットが五百点もの図を仕上げて最初の給料を要求したとき,その倍の千点は仕上がっていなければならぬと言われ,わずかな契約金の半分ももらえずにくびになった.
このセンニチコウの図は初期に刊行された図譜なので,エイレットの作によると考えられる.

センニチコウ-4, 欧州の植物図譜 (1). ブレイニ,モニンクス,ルンフィウス

2014年12月1日月曜日

センニチコウ-4/6, 欧州の植物図譜 (1). ブレイニ,モニンクス,ルンフィウス

Gomphrena globosa
2007年7月
熱帯アメリカが原産地とされるこの植物は,日本には中国から天和から次の貞享のころ(1681-88年)に渡来したとされている(Blog-1).

一方,欧州に渡来した明確な年を示した文献は見出せなかった.しかし,コスモスやヒャクニチソウより約一世紀早く17世紀末には,インドから来た植物としていくつかの植物誌・植物図譜に取り上げられていて,学名をつけたリンネもインド産としている.熱帯アジアで広く分布していたのであろう.英国には 1715 年に渡来したとされており,日本への渡来は英国より早く,欧州大陸と同時期ということになる.

見出せた欧州のセンニチコウの古い図版を出版年代順に掲げる.

リンネを含め,その後の殆んど全ての植物誌が,ブレイニの図譜をセンニチコウの項目の引用文献のトップに記述しているところを見ると,最古の文献と考えられる.この記述には, 1664 年と言う年号が読み取れるが,ドミノ教授が発見した年なのか,欧州に移入した年なのかは判読できなかった.これらの絵も実際の生の植物の絵なのか,腊葉から書き起こしたのかは不明だが,最初の絵は臨場感にあふれていて,美しい.

1-1, 2. Brenii, J. Exoticarum aliarumque minus cognitarum plantarum centuria prima...  LI (1678)

Amarantho affinis indiæ orientalis, floribus conglomeratis, ocymastri folio
 “HUjus piantae, ab Indis expetiti flores vel potiùs capitula, Anno M. DC. LXIV. a Nobilissimo Excellentisstmoq; Domino Jacobo Goliop. m.Professore Matheseos & Orientaliu Linguarum Lugduni-Batavorurn mihi ostensa; & postmodum à Filio ejus Amplissimo & Nobilissimo Dn. Domino Theodoro Golio F. V. D. Civitatis Lugduni Batavorum Consutari, nomine Florume Batao missa: paucos ante annos ex India ipsà pro Putang Indorum, unà cum planta sicca, nec non fructibus & femine, ad manus meas pervenerunt. Hujus duae dantur species, utraque, si. flores seu capitula excipias, eàdem, qua Lychnidis ocymoidis flore purpureo, facie.”

ヤコブ・ブレイニJacobi Breynii or Jakob Breyne or Jacob Breyne or Jacobus Breynius Gedanensis 1637-1697)はオランダ系のドイツの植物学者.商人の父と共に働いていたが,1665年父の死後,ダンチッヒに移住し,商売を続けると共に植物学の研究に勤しんだ.息子で,ポーランド産の赤色色素を生産するカイガラムシの研究で知られる博物学者 Johann Philipp Breyne はいくつかの父の著作の作成に助力した.
1678年に “exoticarum aliarumque minus cognitarium plantarumcenturia” の第一巻を出版し,これは息子の Johann Philipp が継承し増補改定した.この書には 100 種を越える南アフリカ産の植物が記されていて,その中にはセンニチコウもはいっている(次記事).そのほか,彼の著作としては以下の二つが知られている.
Jacobi Breynii, Johann Philipp Breynii, “Prodromus fasciculi rariorum plantarum”, 1680 - 1689.
Jacobi Breynii, Christian Mentzel, “Pinax botanōnymos polyglōttos katholikos, Index nominum plantarum universalis,” 1682
中南米の植物研究で知られるフランス人の植物学者シャルル・プリュミエ (Charles Plumier, 1646-1704) はコミカンソウ科 (Phyllanthaceae) の一つの属を彼に献じて Breynia と命名し,リンネもそれを引き継いだ.

モニンクスの絵は,オランダの植物園に栽培されていたセンニチコウを描いたことがわかっているので,1686年には欧州で栽培されていたことは確実である.コメリンの著作の挿図ではモノクロだが,引用した図譜では美しく彩色されている.残念ながらこのアトラスでは絵だけで,説明文はない.

2.  Moninckx, J., Moninckx atlas, vol. 1 t. 18 (1682)
ヤン・モニンクス (Jan Moninckx, c1656 - 1714) はオランダ人の植物画家で,娘のマリア・モニンクス (Maria Moninckx, 1673-1757) と共に,アムステルダムのHortus Medicus (薬用植物園)に栽培されていた植物を描いた全 9 巻,420図からなる “Moninckx Atlas” で知られている.この図譜は1686-1709 に出版された.またこの図譜の図の一部は,ヤン・コメリン (Jan Commelin, 1629-1692) とヤンの甥のカスパル・コメリン(Casper Commelin, 1629-1692) 1701年に出版した "Catalogus plantorum horti medici Amstelodamensis rariorum” にも用いられている.

ルンフィウス『アンボイナ植物誌』から,1680年には東南アジアに既に分布していたことが分かる.現地語では “Bonga Knop” と呼ばれていた.
3. Rumpf, Georg Eberhard. Herbarium Amboinense [...] Pars quinta, Tab. 100 (1747)(部分) ”Flos globosus, Bong Knop”

ゲオルク・エバーハルト・ルンフィウスまたはルンプフ(Georg Eberhard Rumphius,元の名は Rumpf1627-1702)はドイツ生まれで,オランダ東インド会社で働いた植物学者.著書『アンボイナ植物誌』(Herbarium Amboinense)で知られる.誘拐され,奴隷として働かされたりした数奇な運命を辿った後,オランダ東インド会社に雇用された.1654年にアンボン島(現在インドネシア,モルッカ諸島の一部)へ技師として派遣されたが,その後民生部門に移り,動植物の研究を始めた.バタビアの総督のJoan Maetsuycker (1606-1678) は,ルンフィウスに通常の業務を離れ,研究に専念させた.『アンボイナ植物誌』はアンボン島の1,200あまりの植物の一覧と分類を記したもので,1680年頃に完成したが,機密をまもろうとする東インド会社の方針で,没後の1741年以降に出版された.「東インドのプリニウス」と呼ばれるようになったルンフィウスだが,妻子を地震と津波で失い,集めた図を火事で失うなど不幸にみまわれ,1670年頃には緑内障で失明したが,口述筆記でこの大著を完成した.

2014年11月24日月曜日

センニチコウ-3/6. リンネ.植物の属,クリフォード植物園誌,セイロン植物誌,ウプサラ植物園誌,植物の種, 属名の由来.プリニウス,ダレシャン,Gromphaena to Gomphrena

Gomphrena globosa
2010 年 7 月
日本には中国から天和から次の貞享のころ(1681-88年)に渡来したとされている(センニチコウ-1).

一方,欧州に渡来した明確な年を示した文献は見出せなかった.しかし,コスモスやヒャクニチソウより約一世紀早く17世紀末には,インドから来た植物としていくつかの植物誌・植物図譜に取り上げられている.このインドは,西インドの意味かもしれないが,学名をつけたリンネもインド産としている.

リンネ以前の植物のラテン名は,当時の命名法に従い,基本の類名の下にずらずらと,その植物の特長をラテン語でつけているので,センニチコウは,例えば,Amarantho affinis indiæ orientalis, floribus conglomeratis, ocymastri folioと長ったらしいが,ヒユの一種として認識されていた.

リンネは 1737 年の『植物の属』で,新たに “Amaranthaceae (ヒユ科)の下に “Gomphrena(センニチコウ属)を立て,更に1735 年の『植物の種』で,センニチコウの学名を現在でも有効な Gomphrena globosaとした(このゴムフレーナという名前の由来は後述).

カール・リンネ『植物の属 Genera plantarum (1737), No.198(左図,上)

カール・リンネ『クリフォード植物園誌 Hortus Cliffortianus (1737), p86 には,属名がプリニウス由来と記している. "Gomphrena nomen habetur apud Plinium."
リンネがオランダ滞在中に庇護を受けた東インド会社の総裁,ジョージ・クリフォード3 George Clifford III (1685-1760) の広大な庭に世界中から集められ栽培されていた植物を,リンネが解説し,その天与の才能で十八世紀中ごろのボタニカル・アートに支配的影響を及ぼした植物画家ゲオルク・ディオニソス・エイレット (1708-1770) が図版を描いた書.残念ながらこの書にセンニチコウの図はない.(左上図,下)

カール・リンネ『セイロン植物誌 Flora Zeylanica (1747), p115 (右図)
『セイロン植物誌』は、1670年にオランダ東インド会社の医師としてセイロンに行ったオランダ人パウル・ヘルマン (Paul Hermann, 1646-1695)の押し葉標本を材料にした著書.当時この標本はコペンハーゲンの薬種商のものとなっていたが、一時的にリンネが借り受けて調査した.その後この標本は英国のバンクス (Joseph Banks, 1743-1820) のものになり,その後,ロンドンの自然史博物館に保存されている.

カール・リンネ『ウプサラ植物園誌 Hortus Upsaliensis (1748), p57 (左下図,上) 
オランダから帰国後,ウプサラ大學の教授,大学付属の植物園長になったリンネは園内に住み,リンネの分類法に従って体系的に植物を展示した.条件の悪い低湿地にあったが,リンネの努力で世界各地の多くの植物研究家からから提供を受けた3000種もの植物が栽培された.リンネの死後荒廃したが,日本を来訪した弟子のツンベルク(Carl Peter Thunberg, 1743-1828)によって条件の良い丘の上に移転された.現在では,元の場所に復元され,リンネの住居も博物館として公開されている.

現在の命名法のスタートとなっているカール・リンネ『植物の種 Species plantarum (1735), Vol. 1, p224 には,
"GOMPHRENA.
* floribus terminalibus, caule erecto.
globosa.
1. Gomphrena caule erecto, foliis ovato-lanceolatis, capitulis solitariis, pedunculis diphyllis. Hort. cliff. 86. Hort. ups. 57. Fl. zeyl. 115. Vir. cliff. 22. Roy. lugdb. 418.
Amarantho affinis indiæ orientalis, floribus conglomeratis, ocymastri folio. Breyn. cent. 109. t. 51. Comm. hort. 1. p. 85. t. 45.
Habitat in India. ☉"(左図,下)とある.

この属名に関して,Alice M. Coats "Flowers and Their Histories", Adam & Charles Black, London (1956) には,“the Globe amaranth, --- given the singularly ugly name of Gomphrena”(センニチコウには - - - ゴムフレーナという奇妙な醜い名前を与えられている)と書かれているが,リンネ本人は,『クリフォード植物園誌 Hortus Cliffortianus』に,” Gomphrena nomen habetur apud Plinium.” 「ゴムフレーナと言う名は(古代ローマの博物学者)プリニウスに由来している」と書いている.

調べたところ,16 世紀後半に活躍したフランスの博物学者ジャック・ダレシャンJacques Daléchamps または D'Aléchamps, 1513-158)の『一般植物誌 Historia generalis plantarum (1586) , Vol. 1, p540 “Symphonia Plinii” の節に,”HAnc stirpem Blito propter similitudinem subiunximus, quae Symphonia Plinio dicta,&: Gomphrena (aliqui Cremphenam scribunt, alij Symphonam,alij Comphenam,aut Symphenam) existimari potest, ab Hetruscis hodie Herba de la marauiglia, ideft, herba mirabilis, ob excellentem & admirandam coloris varietatem in foliis. (以下略)とあり,緑や薔薇色の葉をつけるハゲイトウ (Amaranthus Tricolor) が,プリニウスのゴムフレーナであるとしていて,ハゲイトウの図も載っている(右図).

更にこれを手がかりに調べたところ,プリニウスGaius Plinius Secundus, 22 / 2379)の『博物誌 Naturalis historia”』(77 -) Liber XXVI, CHAP. 23. GROMPHAENA の項があり,以下の記述があることが分かった.
“XXIII. Gromphaena, alternis viridibus roseisque per caulem foliis, in posca sanguinem reicientibus medetur.,”

Cambridge, Queens Collage, Gate 1979
ボストック (Bostock, John, 1773-1846.) の英訳版(London,H. G. Bohn,1855-57, vol. 5, 167)では,” THE GROMPHAENA. Gromphaena* is the name of a plant, the stem of which is covered with leaves of a green and rose colour, arranged alternately. The leaves of it are administered in oxycrate**, in cases of spitting of blood.
* Sprengel and Desfontaines identify it with the Amaranthus tricolor; Fee is strongly of opinion that it has not been correctly identified.”
と訳されており,Gromphaena をハゲイトウ (Amaranthus tricolor) と比定している人もいるとしている.(** A mixture of water and vinegar.

また,英訳本では最も権威あるとされている,ケンブリッジ大学クイーンズカレジのフェロー ,ラッカム (Rackham, Harris  (1868-1944) のロウブ版(W. Heinemann,1938-63, vol. 7, p293)では,”Book  XXIII. Gromphaena, which has its leaves alternately green and rose-colour along the stem, taken in vinegar and water cures spitting of blood.” と訳されているが,植物の比定はされていない.

また,ラテン語原典から翻訳した大槻真一郎編『プリニウス博物誌 植物薬剤篇』(八坂書房, 1994) p 375 では,VII-39 に「二三 吐血の薬草グロンファエナ.グロンファエナ(未詳)は,茎に沿って交互に緑の葉とバラ色の葉があり,この植物を酢水に入れたものは吐血を癒す.」
注として「グロンファエナ(gromphaena).同定不可能。Amaranthus tricolor* か.この名は、鳥の名前でも出てくる(「博物誌」第三〇巻・146).へシュキウス (後五世紀か)の著書では,その名前は年を取った雌ブタを指す.」とある. * ハゲイトウ

プリニウスの『博物誌』では,GROMPHAENA なのに,リンネは『植物の属』以降では GOMPHAENA Rを抜かしている.これは,リンネが,プリニウスの著作直接ではなく,ジャック・ダレシャンの『一般植物誌』を参照したからと考えられる.
即ち,プリニウス “GROMPHAENA” ダレシャン “Gomphrena” リンネ “GOMPHAENA” となったのであろう.現在の命名法では,たとえスペルミスに由来する命名と考えられても,“GOMPHAENA” がセンニチコウ属の名として有効である.

センニチコウ-2 絵本野山草,草木育種,ツンベルク「日本植物誌」,泰西本草名疏,梅園草木花譜,草木図説,方言・地方名

センニチコウ-4, 欧州の植物図譜 (1). ブレイニ,モニンクス,ルンフィウス

2014年11月18日火曜日

ハンカチノキ (2014), 果実,種子,種子繁殖法

Davidia involucrata 
2014年11月
2013 年は 20 個くらいしか咲かなかったハンカチノキの花が,今年5月には 100 個程度咲いた.新聞に投稿したら地方欄に掲載され,何人か見に来られたが,掲載されたのが遅く,花盛りは過ぎていた.是非来年の連休頃にまた見に来てくださいとご案内したが,来年はどのくらい咲くだろうか.

花が多かったため,実も多く着き20 個は確認できたが,風と共に落ちてきて,今は葉の落ちた梢に10個ほどがぶら下がっている(下図,右の六個,落ちた果実,長径 35 mm,短径 25 mm).

昨年落ちていた実を放置していたところ,果肉が落ちて核のみをあらわにした(核,長径 25 mm,短径 20 mm)(下図,左端).

果実からの繁殖は発芽率は低いうえに時間がかかる(発芽に 12年,開花まで更に20年くらい)ので,英国に最初に導入された時もだいぶん苦労したとのこと.

その具体的な方法が東京大学大学院理学系研究科附属植物園 社会教育企画専門委員会編『ハンカチノキ』(2000) に記載されていたので,一部を引用する.これを読むと素人には取り木繁殖が種子繁殖に比べて時間が短く(といっても苗を得られてから十数年),手軽のように思われる.

「繁殖方法
一般的に種子繁殖、取り木繁殖、接ぎ木繁殖が行われている。
1.種子繁殖
果実はクルミ大の核果で長い果柄を持ち、鈴を吊すように着果する。熟期は 1112月。果実を入手したら果肉を取り除き、核の部分をタワシなどでよく水洗いして保存する。播種期はその年の秋または翌春。5号の駄温鉢と赤玉土の小粒と大粒を用意する。最初、鉢底に赤玉土の大粒を敷き、その上に赤玉土の小粒を入れて核を34個播種する。覆土は赤玉土の小粒を核の大きさの 倍ぐらい入れて、たっぷりと濯水する。
播種鉢は、無加湿のガラス室や軒下などの雨水のかからない場所に置き、時々潅水して鉢土を乾かさないように管理すると12年後の春に発芽してくる。発芽率はあまりよくないが、1個の核から 3本ぐらい次々と発芽が見られる変わった植物である。
移植は発芽から 1年後に1本づつにして植え替え、木の大きさに合わせて大きな鉢にすると若苗が得られる。(下園 文雄)」

今年は下園さんのインストラクションに従って蒔いてみようと計画しているが.芽がでるかしら.
昨年の経験では果肉を取るのが難しい.

ハンカチノキ (2015-2) ,夏から秋,果実の成長 ポリフェノール,勇敢な毛虫 紅葉

2014年11月4日火曜日

センニチコウ-2/6 絵本野山草,草木育種,ツンベルク「日本植物誌」,泰西本草名疏,梅園草木花譜,草木図説,方言・地方名

Gomphrena globosa 
2013年 9月
『絵本野山草』には,よく特長を捉えた絵と共に,茎が紫色を帯びること,また白い花を付ける品種があることが記されている.
★橘保国 (1715-1792) 絵本野山草』(1755
「千日紅(せんにちこう)六月,花有葉あつく、茎、むらさきのうつり有。葉の末に、花一りんづゝさく。かたち丸く、いろ、紅紫。至極見事也。日をかさね、花のいろかはらず・千日紅の名有。白花有。花葉、共に同し。」(左図,NDL)

出島の医師として1775 – 1776 に滞日した,リンネの弟子の★カール・ツンベルク (Carl Peter Thunberg, 1743-1828) の『日本植物誌』(Flora Japonica, 1784)の p114 には,
”GOMPHRENA, globosa. G. caule erecto, foliis ovato-lanceolatis, cpitulis folitariis, pedunculis diphyllis. Gomphrena globosa. Linn. sp. Pl. p326.
Japonice: Sennitsko. Crescit hinc inde, saepe culta in ollis. Floret Septembri, Octobri.”
と,簡単な形状とリンネの「植物の種」の該当ページ.日本では「センニチコウ」と呼ばれ,あちらこちらに生えているが,時折鉢植えにされている.花期は9月から10月である.と記されていて,この時代長崎近辺では広く生育していたものと考えられる(右図,MOBOT).


この,ツンベルク著『日本植物誌』に所収された植物を学名のアルファベット順に配列し,その和名・漢名を記した★伊藤圭介訳述『泰西本草名疏 下』1829 (文政12) には,「GOMPHRENA GLOBOSA. LINN. センニンソウ 千日紅」とある.

本草家として知られる,岩崎灌園は,『草木育種』(1818年)の美花の項にとりあげて,紅だけではなく,白い品種があることも述べている.
★岩崎灌園(17861842)『草木育種(そうもくそだてぐさ)巻之下』(初版文化15 (1818),後刷天保4年(1833))
「千日紅(せんにちさう) 花鏡 天和貞享年中に本邦へ初て渡と云。今甚多し 真土赤土ともによし.二三月種を●まき秋花あり。紅(あか)。白。二種あり。魚洗汁人屎等澆(そそぎ)てよし」(左図,NDL)

幕府の要職にありながら,博物学に興味をもち,多くの本草家の指導をうけて,質の高い図譜を残した毛利梅園は,紫と白の花をつけたセンニチコウの美しい絵とともに,ラテン名を記し,ラテン語の名称の意義を大槻玄沢の『六物新志』より引用している.
このラテン名の由来を調べたが,不明.アマランサス(ケイトウ類)としているので,リンネ命名法以前のラテン名に由来すると思われる.江戸時代末期に入って多くの本草家の参考にされたヨハン・ウエインマン (1683-1741)の『花譜 or薬用植物図譜』(Phytanthoza iconographia(1737-1745) に記載のラテン名とは異なる*.更に,紫・白だけではなく,絞りや更紗などの花を付ける品種があると言っている.(*次記事参照)

★毛利梅園(17981851)『梅園草木花譜 夏之部四』(1825 序,図 1820 – 1849
「大和本草曰
千日紅 予曰 或此曰 千日草・千日坊 出所不詳
和漢通名 千日草 アマランモユス コロモシユス リユエル 羅甸」(右図左,NDL)

梅園草木花譜 夏之部七』(1825 序,図 1820 – 1849
「アマランモユス コロモシユス 羅甸方言
アルコス 千日紅ノ白花ノ者別種ニ非ラス蜀古ヨリ舶來シテ年々種ヲ植ユ亦近來實生ヨリ變(カハリ)絞(シボリ)更紗(サラサ)色々アリ自園ニモ在也
丁未六月廿五日 於自園寫」(上図右,NDL

本図左上の「六物新志曰 羅甸語 云々」という文章は,大槻玄沢の『六物新志』(1786)からの引用.「六物」とは,一角(ウニコウル),夫藍(サフラン),肉豆蒄(ニクズク),木乃伊(ミイラ),噎浦里哥(エブリコ),人魚の6種の薬物のことで,これらについて天明61786)年,大槻玄沢が蘭書に基づいて考証したのが「六物新志」である. その上巻の凡例十三則の二に梅園の引用文が載る.大意は「羅甸語は欧州の諸国に通用する言語である.各国はそれぞれの言語を持っているが,物事を記すのに羅甸語を用いると通じ易い.羅甸は古い国の名前で今は既に滅びて今はない.」とラテン語の学名を記す意味を述べている.

★飯沼慾斎『草木図説前編(草部)巻之四』(成稿 1852(嘉永5)ごろ,出版 1856(安政3)から62(文久2))には,味のある精密な全体図と共に一つの花の解剖図も載せられている.ラテン名は,リンネの名づけた二名式学名(Gomphrena globrosa L.)と思われる.
「センニチサウ 千日紅
人家多ク栽テ花ヲシ花ニ紅白淡紅ノ種又並頭ノ品アルコト等世ノ可通知故ニ略之.前花ニ総萼ナク.多ノ完筒子花ノ聚簇ニ成リ.一殊態アルコト以郭大三圖詳之
(中略)
ゴムプレナ.ゴロポサ.羅 ヤールレークセ・ロンドブルーム,蘭」(左図,NDL)

センニチコウは五代将軍綱吉の時代には移入され,繁殖も容易なことから各地に拡がり,方言(地方名)も多い.

可愛らしい丸い花の形状から,だるまそー:新潟,だんごばな:和歌山(西牟婁)山形(村山)新潟 ,てまりのはな:島根(鹿足市),てまりばな:福井(大飯),てまるこのはな:島根(美濃・益田),花の形を僧侶の頭に例えての,ぼ-すはな:三重(伊賀),ぼ-ずばな:山形(鶴岡市・庄内)静岡(小笠)愛知(渥美)鹿児島(薩摩・奄美大島),ぼしぼな:鹿児島(日置),ぼすぼな:宮崎(東諸県)鹿児島,ぼずばな:鹿児島,ぼっばな:鹿児島(鹿児島市),ぼんさんばな:奈良(高市),ぼんぼんさん:鹿児島(肝属),お盆の供花として重宝したのか,おぼんばな:滋賀(甲賀),ぼんばな:山形(鶴岡市・西田川)鹿児島(鹿児島市・肝属・薩摩),ぼんぼこばな:山形(飽海),長期間咲いてかさかさのドライフラワーとしても鑑賞できるから,うらしまそ-:高知,かりかりばな:山形(鶴岡市・飽海)などがある.

他には,由来が良く分からない,まつばぼたん:栃木,と-だえばな:鹿児島(奄美大島),やんぼす:鹿児島(鹿屋市),はもじ:和歌山(新宮),はもじき:和歌山(新宮),うしのはもじき:和歌山(新宮市),ふっ:和歌山(日高),ふっくさ:和歌山(海草)がある.(八坂書房[編]『日本植物方言集成』八坂書房(2001) より抽出)

センニチコウ-3 リンネ.植物の属,クリフォード植物園誌,セイロン植物誌,ウブサラ植物園誌,植物の種,属名の由来.プリニウス,ダレシャン,Gromphaena to Gomphrena

センニチコウ-1 秘伝花鏡,植物名實圖考,中国異名,松平大和守日記,花壇綱目,花譜,大和本草,諸品図,草花絵前集,地錦抄附録,和漢三才図会