2012年12月31日月曜日

セイヨウヤドリギ (4/6) 薬効 ディオスコイデス・プリニウス・カルペッパー

Viscum album
1978-12 Cambridge, U.K.
神秘的な力を持っていると信じられていたヤドリギには,多くの呪術的は,或は薬用的な作用があると考えられ,現在でも ”all-heal,all-healer” と呼んでいる地方もある.

Pedanius Dioscorides
古代ギリシアの医者、薬理学者、植物学者ペダニウス・ディオスコリデス(Pedanius Dioscorides 40年頃 - 90年)の有名な『薬物誌(Materia Medica)』には,” IXOS” の名でヤドリギの記述があり,「部分によっては有毒. 最善のixiaは新鮮な,内部はレーキのような緑色で,外側は薄黄色で,つるつるしていて,粉は吹いていない.これはオークの上に育ち,丸い実がなり,つげに似た葉をつける.実を砕き,洗って,水中で煮沸する.噛み砕く過程を加える人もいる.リンゴやナシの木の上にも育つ.等量の蝋や樹脂と混合すると,耳下腺の炎症による腫れや他の化膿に効果がある.夜間にのみ現れる吹き出物を癒す.- - また,乳香との混合物は潰瘍や悪性の化膿を柔らかくする.」などの効用が記されている.

また,古代ローマの博物学者プリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus, 22 / 23 – 79)は,彼の “Naturalis historia 『博物誌』” (77 A. D.) の第二十四巻,6節に「迷信から,ヤドリギを新月後の第一日目に,鉄の刃物を使わず大地に触れないようにしてロブル(hard-wood oak)から採取すると,その効力がいっそう強くなり,癲癇を癒し,とりあえずただ身につけておくだけで女性が妊娠するのを助け,噛み砕いてつけると潰瘍を治すのに非常によく効く,と信じている人たちもいる」.また,これから製造される鳥もちの効用として,「(とりもちを造るのに)最上のものは,皮がなくて非常に滑らかで,外側は黄褐色で中身はリーキ(ニラネギ)のような緑色をしている.この鳥もちほどねばねばしているものはない.これには,炎症を鎮め,腫れを散らし,腺腫を乾かす作用がある.これに樹脂と蜜蝋を混ぜたものは,あらゆる種類の皮膚の膿瘍を鎮める.」と,彼が迷信と考えているのも含めて,ディオスコリデスの『薬物誌(Materia Medica)』に類似した多くの魔力・薬効を挙げている.

この,「癲癇を癒す」効用はヤドリギがほかの木に寄生して「地に倒れない」ことを癲癇(falling sickness)封じに結びつけたものとも,考えられるが,18世紀まではイギリス・オランダ辺りの医学者さえもその効能を信じていた.

Nicholas Culpeper

17世紀に活躍した英国の植物学者・本草家・医者・占星術師のカールペッパー(Nicholas Culpeper , 1616 –1654) は,その著書 ”English physician and complete herbal (1652) “ の数ページをヤドリギ(Misletoe)の記述に割いている.

そこには,抗炎症や鎮炎症の他に,「特にオークのヤドリギの粉は,40日間連続して内服,あるいは首から下げると,癲癇に効果がある.また,どんな種類のヤドリギの若木でも,それを傷つけて分泌される液を耳に入れると,数日の内に膿瘍によって引き起こされる問題が解決される.」とあり,また,その粉は胸膜炎にも著効があるとしている.

Culpeper の著書より
さらに,「(癲癇の治療には)ハシバミの木に着いたヤドリギがオークに付いたものより適しており,何年間も有名な医者にかかっても,効果がないどころか,症状がかえって悪化し,一日8~10回の発作を起こしていた若い女性が,満月に近い数日,早朝に6ペンス分のヤドリギの粉をblack cherry-water あるいはビールに入れて服用しただけで快方に向かった」と実例を挙げている.

現在では,勿論これらの効用は否定されているが,1916年にドイツのルドルフ・シュタイナーが提唱して以来,スイス・オランダ・イギリスの一部の医者が抽出物を抗がん剤 (Iscador または Helixo の名で売られているらしい) として使っている.

2012年12月26日水曜日

セイヨウヤドリギ(3/6) "Aurei rami", The Golden Bough, 金枝

Viscum album
Dec.1978, Barcelona
セイヨウヤドリギは古代ローマ神話に現れる「金枝(Aurei rami, Golden bough)」 と考えられている.

Joseph M W Turner (1775-1851) The Golden Bough (1834)
この「金枝」は神・樹木・王をつなぐシンボルとして,著名な人類学者ジェームズ・フレーザー卿(Sir James Frazer, 1854 - 94)の著書「金枝篇(THE GOLDEN BOUGH, A STUDY OF MAGIC AND RELIGION)」のメインテーマとなっている.その書の中にはヤドリギと北欧神話の光の神・バルデルの死や,スイス・オーストリア・イングランド北部など欧州各地のヤドリギの伝承も取り上げられているが,メインはイタリアのネミ湖畔のディアナ神殿の祭司にまつわる伝承と,ローマ建国神話「アエネーイス」の挿話に現れる「金枝」である.

ローマの東,イタリア中部に位置する小さな村アリチア,近くの湖ネミ湖も湖畔にはかつては広大なディアナの神殿があったとされる.そこに伝わる伝説によれば,かつてはそこにディアナに仕える祭司がいて,彼はなぜか「森の王」という称号を持っていた.その任期は彼が殺されるまでである.したがってその職に就こうとする者は,その祭司と戦って彼を殺さなければならない.ただ戦う資格を持つためには,その前に必ずそこに茂るある樹の枝を折ることになっている.だから祭司もその枝を折らせまいと,昼も夜も抜身の剣をひっ下げてその樹のまわりを歩きつづけるのである.
この重要な木の枝が「金枝」であり,フレーザーは多くの伝承や神話からこれがオークの木に着いたヤドリギであると考えた.

古代ローマ黄金時代のウェルギリウス(70-19 B.C.)の建国叙事詩「アエネーイス」では,トロイア敗戦から逃れた王族アエネーアスが,新たな国を築くべく,父祖の地イタリアへの旅の途中で,亡父アンキーセースと再会するための冥府下りに必要な「黄金の枝」を求めて,どこまでも広がる陰欝な森に入る.
果てしない森をさまよったあげくに,アエネーアスは二羽の鳩の導きで、暗い影を落とす木々の向こうに、ゆらめく光が頭上のからまりあった枝を照らしているのを見て「黄金の枝」を発見するのだが,それはオークに着生したヤドリギのようだとされている.
Henry Matthew Brock (1875 – 1960)
From Lady FRAZER
"Leaves from the Golden Bough" (1924)
As, on the sacred oak, the wintry mistletoe,
Where the proud mother views her precious brood,
And happier branches, which she never sow'd.
Such was the glitt'ring; such the ruddy rind,
And dancing leaves, that wanton'd in the wind.
(Translated to English by John Dryden)

それはまるで宿り木のよう。いつも厳寒の冬至のころ、森の中に
新緑の葉を伸ばすが、親木とは種が異なり、
サフラン色の実でなめらかな幹を包む。
そのような光景を見せて、黄金が蔭深い常磐樫から
枝を伸ばしていた。そのように金箔がそよ風に鳴っていた。
(ウェルギリウス『アエネーイス』岡道男・高橋宏幸訳 2001)

しかし,前に述べたように(セイヨウヤドリギ (1/4)),ヤドリギは親木のオークが葉を落としても緑の葉を茂らせている.それゆえ,崇拝の対象のオークの命が冬の間も宿っているとして神聖視されていた.

ならばなぜ「黄金」と形容されるのか.フレーザーはそれに対して次のように答えている.
"It only remains to ask, Why was the mistletoe called the Golden Bough? The whitish-yellow of the mistletoe berries is hardly enough to account for the name, for Virgil says that the bough was altogether golden, stems as well as leaves. Perhaps the name may be derived from the rich golden yellow which a bough of mistletoe assumes when it has been cut and kept for some months; the bright tint is not confined to the leaves, but spreads to the stalks as well, so that the whole branch appears to be indeed a Golden Bough. Breton peasants hang up great bunches of mistletoe in front of their cottages, and in the month of June these bunches are conspicuous for the bright golden tinge of their foliage. "
「なぜヤドリギが「金枝」と呼ばれたのか。ヤドリギの実は白っぽい黄色だが、それだけではこの名がついた説明としては不十分である。なぜならウェルギリウスはこの枝が葉ばかりか茎まで黄金色だったといっているからだ。「金枝」と呼ばれたのはたぶん、切りとったヤドリギの枝を数か月おいておくと、見事な金色がかった黄色になるからだろう。その鮮やかな黄金色は葉だけではなく茎にまで及び、枝全体がまぎれもなく「金枝」に見えるようになるのだ。ブルターニュの農民は、ヤドリギの大枝を家の戸口に吊るしておくが、六月になると、その枝は輝く金色に染まってひときわ人目を引きつける。(フレーザー『図説 金枝篇』内田昭一郎・吉岡晶子訳 1994)」

フレーザーは『金枝篇』で,太古から綿々と続く「樹木=自然崇拝」の原点を「金枝」をキーワードにして解き明かそうとしたかに思われる.

2012年12月19日水曜日

セイヨウヤドリギ(2/6) クリスマス,kissing under the mistletoe,北欧神話,サートゥルナーリア祭

Viscum album
Dec. 1978, Market Square. Cambridge U.K. 
屋台の日よけには,セイヨウヤドリギの枝が吊り下げられ,25p で売られていた
クリスマスの時期,天井から吊り下げたりやツリーに飾ったヤドリギの下では,遠慮なく女性にキスすることが許されるという風習は,英語圏では今でも一般的である.

スペインからサンディエゴに戻ってきたケイトさん(英国人)に,ヤドリギの下でキスされたことある?と訊いてみたら,”It is custom that dates back from pagan times, and continues today. There are many songs about it, because of its romantic associations. When I was growing up, I remember that the adults in my ‘extended’ family would make a lot of fun about kissing under mistletoe, but it was always so innocent. My father would tease my 80-some year old aunt about catching her under the mistletoe!
I think that it has happened to me, but as you can tell, it was so unmemorable that I have no recollection. I am sure that I would have remembered if there had been romantic interest, but alas, that has never been the case!” とのこと.

老婦人に敬意を表するために,ヤドリギの下でキスをするのは,古くからの習慣らしく,チャールズ・ディケンズ(Charles Dickens, 1812 - 70)の『ピクウィック・クラブ “Pickwick papers” (1836 - 1837)』第28章には,
"From the centre of the ceiling of this kitchen, old Wardle had just suspended with his own hands a huge branch of mistletoe, and this same branch of mistletoe instantaneously gave rise to a scene of general and most delightful struggling and confusion; in the midst of which, Mr. Pickwick, with a gallantry that would have done honour to a descendant of Lady Tollimglower herself, took the old lady by the hand, led her beneath the mystic branch, and saluted her in all courtesy and decorum.
この台所の天井の中心のところから、老ウォードル氏は自分自身の手でやどり木の大きな枝をたったいま吊るし終わったところ、そして、その同じやどり木の大きな枝が、みなの楽しいおし合いへし合いと混乱をひきおこしていた。その最中にあって、ピクウィック氏は、トリムグラウア夫人自身の子孫にも名誉となるほどの慇懃さで、老夫人の手をとり、彼女を神秘的なやどり木の下につれてゆき、すべての礼儀正しさと丁重さをこめて、彼女にキスをした。(北川悌二訳,ちくま文庫)" と,ピクウィックさんが老トリムグラウア夫人手を取ってヤドリギの下に導き,キスする情景が記されている(右図).

勿論,好きな少女にキスするためにこの機会を狙う若者もいて,米国のロック カントリー曲 “Hangin' 'Round the Mistletoe, ヤドリギの下をうろうろ” と言う歌では,” Well, I've waited all year long and nore the year is almost gone, Hangin' 'round the mistletoe, hangin' 'round the mistletoe” と一年間この機会を待っていた純情な青年の心情が歌われている (The Whites - "Hangin' Around the Mistletoe" Live at The Grand Ole Opry )

この風習の起源に関しては,いろいろな説があるが,北欧神話のバルドルの死と復活とヤドリギの挿話がオリジンというのが,一般的らしい.
光の神バルドルは,主神オーディンとのフリッグの息子で,母フリッグの寵(ちょう)愛を一身に受けていた美しい神であった。フリッグはバルドルに危害を加えないようにあらゆる被造物から誓約を取り,バルドルは不死身の子として,ほかの神々からも愛されていた.ところがフリッグが一見無力なヤドリギを見くびって,これから誓約を取ることを怠ったために,厄神ロキはこの事を探り出しヤドリギから矢を作った.
「そしてそこで、大地にも水にも根づいていず、一本のカシの木の幹から生えているもの、この(ずる賢い者-ロキ)が探しにきたものを見つけたのでした - ヤドリギの小枝です。その実は、淡い瞳が集まったかのようにほのかに輝いていました。葉は緑や黄緑で、その茎と小さな枝々や細い若枝は緑色でした。白昼の光の中では、それは静止していてこの世ならぬものに見えましたが、薄明かりの中では、いっそう奇妙でした。*」.
ロキは,バルドルの盲の異母弟ヘズにこの矢を与え,甘言をもってバルバドルに向かって投げさせたので(右図),バルドルは殺されてしまった。バルドルは葬儀の時に,悲しみのあまり死んだ妻のナンナと共に,船-リングホルン-の上で火葬にふされた.この後,神々と巨人族との間に起こる,終末の究極的な戦いラグナレク(「神々の黄昏」)を迎え,オーディンをはじめとして多くの神が死に,オーディンの神話の世界は滅ぶ。しかし,やがて新しい大地が浮かんでくると,バルドルはヘズと共によみがえってくる。

また,前記事に述べたドルイド僧の異教慣習の影響とも,冬至の後の太陽の復活を祝う古代ローマの農事の神,サートゥルヌス神を祝したサートゥルナーリア祭の遺習だとも云う.

いずれにせよ,この風習はキリスト教からすると「異教 pagan」起源であることは間違いない.キリスト教は土着宗教の信者を改宗させるために,土着宗教の祭日や慣習やシンボルを積極的に取り込んだことはよく知られている.クリスマスという祭日自身が,キリストの誕生日ではなく,冬至-太陽の復活-を祝う祭典の時期に重なっているのは,偶然ではない.

したがって,宗教的迫害を逃れて北米大陸に移住した清教徒(Puritan)は初期にはクリスマスを祝わなかったし,今でも教会で mistletoe の飾りつけを禁じている教区が多いとのこと.
一方,カソリックでは,そのような禁忌はないようで,米国で最も大きいカソリック系の大学,ワシントンD.C.にある The Catholic University of America では,毎年「ヤドリギ舞踏会,Mistletoe Ball」を開催している(左図).
日本でも七五三のお祝いをしているキリスト教会がカトリック系には多いそうだ.

*キーヴイン・クロスリイーホランド『北欧神話物語』山室静,米原まり子訳,(青土社,1994)

セイヨウヤドリギ(3/6) "Aurei rami", The Golden Bough, 金枝

セイヨウヤドリギ (1/6) プリニウス,ケルトのドルイド僧,鳥による種子散布,ターナー,ジェラード

2012年12月17日月曜日

セイヨウヤドリギ (1/6) プリニウス,ケルトのドルイド僧,鳥による種子散布,ターナー,ジェラード

Viscum album
 “Tierleben im Ornament” by G. Sturm, in Anton Seder ed. ‘Die Pflanze in Kunst und Gewerbe’ (1895)
最上段にはセイヨウヤドリギの実をついばむキレンジャクが描かれている
欧州では古くから神秘の植物として,古代ケルトの神事,北欧神話,キリスト教伝説,民間伝承など,地中海域からバルチック海域にいたるまで,ヨーロッパのフォークロアにゆかりが深い.

この植物を特に神聖視したのは古代ケルト族のドルイド僧で,樹木の王者と考えていた Oakに寄生したヤドリギ(‘Oak Mistletoe’)を神からの授かりものとして崇拝した.それは,この植物が地面には生えず,木の上にのみ生えることから,天から降りてきたものと考え,また本体のオークが葉を落としても青あおとしているヤドリギに生命力の源を見たのだろう.その採取には厳しい方式を守っていたとされる.

Rome: Sweynheim and Pannartz, 1470
ローマ時代の博物学者,ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus, 22 / 23 – 79)は”Naturalis historia 『博物誌』(77 A. D.) ” (写本,左図)の第十六巻,95節に「彼ら(ガリアのドルイド僧たち)は年頭の月齢6日の夜に白衣すがたで2頭の白い雄牛を連れてこれを捜しに出かけ,見つかれば,黄金の鎌(celt)でそれを切り取り,持ち帰って祭壇を飾った.切り取った茎は土に触れるのを忌み,それを白い袖なしの上着に受け止めた.そのあとで,神が自らの贈り物を,それを授かった人々のために幸いなものにしてくれるよう祈願しながら,犠牲のウシを屠る.彼らは,ヤドリギを飲み物にすると,子の生まれないどんな動物でも多産にすることができ,あらゆる毒物に対する解毒剤になると信じている.諸民族のつまらない事物に対する崇拝の念は,たいていの場合,これほどに強いものである.」と,記している.シーザーの『ガリア戦記』にあるように,当時のローマ帝国の北辺は現在のイングランドで,先住のケルト族との接触があったので,このような知識が入ってきたのであろう.

注目すべきは,第十六巻,93節で,「なおヤドリギは,どんな方法で種子を播こうと決して生育せず,ただ鳥,ことにハトとツグミの糞を通じてだけ生えてくる.これがヤドリギの性質で,鳥の腹の中で熟したものしか芽を出さない.大きさは,常緑でいつでも茂みをつくっているもの(ヒユフェアル=セイヨウヤドリギ)でも一クビトウム(約四四センチ)を越えない.ヤドリギは雄性のものには実がなるが,雌性のものにはならない(The male plant is fertile and the female barren.)ただし,実のなるはずのものでも時にはならないことがある.」と記していることで,種子の散布が鳥によって行われていること,雌雄は取り違えているものの,雌雄別株であることを認識していた事である.


この鳥による樹木への種子散布は中世の英国でも知られており,ウィリアム・ターナー(William Turner, 1508 - 68) の“A new herbal 『新本草書』”(1551 – 1568)には ‘The thrush shiteth out the miscel berries.’とあり,また,ジョン・ジェラード(John Gerard aka John Gerarde, 1545 – 1611 or 1612)“The herbal, or, General Historie of plantes 『本草あるいは一般の植物誌』”(1597) にも,”--- ; some of the learned have set downe that it came of the dung of the birde called a Thrush, who having fedde of the seedes thereof, as eating his owne bane, hath voided and left his dung upon the tree, whereof was ingendred his berry, --- “ とある(右図).(続く)

セイヨウヤドリギ(2/6) クリスマス,kissing under the mistletoe,北欧神話,サートゥルナーリア祭

2012年12月10日月曜日

ヤドリギ (2/2) 薬料,延喜式・本草和名・和名類聚抄・江戸本草書,ケンペル・ツンベルク

Viscum album subsp. coloratum
2003年3月 茨城県南部 十三面砂山
(承前) ヤドリギの葉や茎は漢方で婦人薬として使われている.

江戸時代まで最も権威ある中国本草書の集大成として認められていた,中国の明の李時珍選『本草綱目』(初版1596)木之四寓木(寓木類一十二種)の「桑上寄生」には,「【修治】曰︰採得,銅刀和根、枝、莖葉細銼,陰乾用。勿見火。【主治】腰痛,小兒背強,癰腫,充肌膚,堅發齒,長須眉,安胎(《本經》)。去女子崩中內傷不足,產後余疾,下乳汁,主金瘡,去痺(《別錄》)。助筋骨,益血脈(大明)。主懷妊漏血不止,令胎牢固(甄權)。」とある.ヤドリギが婦人にのみならず,小児の背の痛みに対してなど幾つかの薬効があるとされている.この書には他にも桃寄生,柳寄生が収載されているが,これらの記述は少ない.薬料としては「桑上寄生」が重要視されており,日本ではこれがヤドリギに当てられた.

日本でも,『延喜式』(927) の「巻三十七典薬寮」の「諸国進年料雑薬」には,毎年「阿波国」より「卅三種」の薬料が貢進されることになっていて,その中には「橘皮一斤。躑躅花四斤。芍薬,牡丹各三斤。細辛九斤。大戟。狼牙。茯苓。連翹。女萎各二斤。升麻十両。蒲黄八両。天門冬五斤。」などとともに「寄生廿斤。」がある.

NDL, WUL
以下に江戸時代までの主な本草書に於けるヤドリギの記載を拾うと,いずれも「桑上寄生」=「ホヤ,ヤドリギ」としている.(右図,右端より1 - 4)
★深根輔仁撰『本草和名』延喜年間(901 - 923)編纂「上巻,第十二巻 木 上卅七種,桑上寄生 和名:久波乃岐乃保也」(右図,1)

★源順『和名類聚抄』(931 - 938),那波道円 [校](1617)「木類第二百四十八」(右図,2)

★東麓破衲編『下学集』(1444)「寄生 アトカキ,ホヤ 一名寓生」

★林羅山『多識編』(1612)「巻之三 木部四 桑上寄生 久和乃保也(ほや) 今案ニ 久和乃保也土利元(クワノヤドリギ)」(右図,3)

★岡林清達・水谷豊文著『物品識名-坤』(1809 跋)(右図,4)


中村学園
貝原益軒『大和本草』(1709) には,より詳しい記述があり(左図),「ヤドリキ ホヤ 寄生 諸木倶ニアリ 薬ニハ桑上ノモノヲ用ユ」と桑に付いたヤドリギが最も薬効が高いとしている.

 さらに,小野蘭山『本草綱目啓蒙』(1803-1806)「巻之三十三 木之四 寓木類」には,「桑上寄生  クハノヤドリキ」の項が設けられ「寄生 ヤドリキ(和名抄),ホヤ(同上),ヤドルホヤ(古歌),カラスノウヱキ(防州),トビキ(讃州)
 桑寄生 〔一名〕混沌螟姈,寓屑,寓童,桑生,桑木冬児沙里,桑絡,桑樹上羊児藤,桑上羊児藤,桑上牛児藤
 桑樹上ノヤドリキヲ桑寄生ト云。ヤドリキハ寄生ナリ。其木ノ余気ニテ生ズル者ニシテ、諸木共ニアリ。薬ニハ桑上ノ者ヲ用ユ。鳥他木ノ子ヲ食ヒ、糞樹上ニ落テ生ズルヲ寄生ト云ニ非ズ。保昇ノ説ハ誤ナルコト、宗爽ノ弁明ナリ。寄生ハソレゾレノ木ニ自ラ生ズ。故ニ各木ニ由テ葉実ノ形異ナリ。鳥ノ糞中ノ木子樹窼ニ落テ生ズル者モアレドモ、コレハ寄生ニ非ズ。桑寄生ハ隠州ノ産ヲ上品トス。凡ソ蚕ヲ養ハザル暖地ニハ、桑木採斫ノ苦ナキ故、木盛ニ茂り、木モ古クナリテ枝間ニ寄生ヲ生ズ。皮中ヨリ幹ヲ出シ、他木ノ枝ヲ挿タルガ如シ。枝葉両対シ、柳葉ノ如ク、躑躅葉ノ如クニシテ厚シ。葉間ニ円実ヲ結ブ。南天燭子ノ大ノ如シ。熟シテ淡黄色透徹シ内子見ユ。破レバ粘滑ナリ。隠州ノ産ハ葉他州ノ者ヨリ大ナリ。桜、柳、朴(エノキ)、梨等ノ寄生桑上ノ者ト形状相同ク、乾者節節相離レ、葉葉自ラ落。故ニ今薬家ニ販グ者多クハ和州芳野ノ桜寄生ナリ。桑上ノ者ハ枯テ枝葉共ニ黄色ナリ。
 他木ノ者ハ緑色ニシテ黄ナラズ。故ニ黄色ニ染テ偽ル者アリ。本草原始ニ、茎葉黄自採者真ト云。本草彙言ニ、其他木如松楓楡柳欅槲(カシワ)桃梅等、樹上間或赤有寄生、形頼相似、気性不同、服之反有毒ト云。本草●(氵+匚+隹)ニ別樹生者殺人ト云リ。松上、樅(モミ)上ノ者ハ葉、柞木(イヌツゲ)葉ニ似テ、狭細ニシテ厚ク色深シ。実ハ小豆ノ大ノ如シ。紅熟シテ味甘シ。櫧(カシ)上ノ者ハ、ヤシヤビシヤクト云。他ノ樹上ニモ生ズ。一名テンバイ テンノウメ テンリウバイ(加州)キウメ(土州)シャウイタドリ(同上) 葉ハ木ヒヨドリジヤウゴノ葉ニ似テ厚シ。花ハ梅花ニ似タリ。実ハ蒼耳(ヲナモミ)実ノ如シ。野州日光山ニ多シ。即、鄭樵。爾雅ノ註ノ蔦ナリ。」とある.
西欧ではローマ時代にすでにヤドリギ(セイヨウヤドリギ)は鳥が散布することを記しているが,小野蘭山は「其木ノ余気ニテ生ズル者」として,木が切られもせずに古木になったときに,その精気が余ってヤドリギが生ずるとしている.一方,形状の観察は鋭い.クワの木に生えたヤドリギは,薬用としての需要は多かったためであろう,他の木のヤドリギを黄色に染めた偽者が売られていることも記している.

KUL, MBG, WUL
長崎出島に滞在したケンペル,ツンベルクもヤドリギの記録を残していて,ケンペル(1651 - 1716)の『廻国奇観』(1712)には,「生寄,Ksei, Jodoriki」と,漢字・漢名・和名とともに,”Viscum baccis rubentibus” とセイヨウヤドリギとの類似性を指摘し,江戸参府の途上,三河で観察したとしている(左図,左上).

カール・ツンベルクの『日本植物誌』(Flora Japonica)(1784)には,日本名は「Ksei, I(J)adoriki」であるとし,三河と長崎の植物園で見て,リンネが命名したセイヨウヤドリギ (Viscum album) と同定した(左図,左下).

シーボルトの弟子の伊藤圭介はツンベルクの『日本植物誌』を訳述した『泰西本草名疏』(1829) で,『日本植物誌』のViscum album に「ヤドリキ 寄生」を当てた(左図,右).

 現在では冒頭の学名のように,ヤドリギはセイヨウヤドリギの亜種と位置づけられている.(セイヨウヤドリギに続く)

2012年12月8日土曜日

ヤドリギ (1/2) 万葉集,延喜式,枕草子,源氏物語,芭蕉

Viscum album subsp. coloratum
08年11月 塩原 大沼園地
落葉広葉樹の森林が物寂しくなるこの季節,緑の団塊状のヤドリギが目につく.常緑の葉にクロロフィルをそなえて同化作用をする一方,宿主からも養分をとる半寄生の樹木.宿主樹木はエノキ・クリ・アカシデ・ヤナギ類・ブナ・ミズナラ・クワ・サクラなど幅広い.
日本のヤドリギ(中国・朝鮮半島にも分布)は,欧州で数多くの伝説に包まれるセイヨウヤドリギ “Mistletoe (Viscum album) “ の亜種とされる.セイヨウヤドリギの実がオパールのように白く半透明に熟すのに対し,淡黄色あるいは橙黄色になる.画像のように実が橙黄色になるものは,アカミヤドリギ f. rubro-aurantiacum と呼ばれる.

冬季,果実をキレンジャク・ヒレンジャク・カラスなどが好んで食べ,くちばしについた種子を樹皮でふきとったり,ふんとともに排泄した種子(シリクサリ)が樹皮に粘着して張り付くと、そこで翌年春から発芽して樹皮に向けて根を下ろし、寄生がはじまる.年内に本葉が2枚となり,年々1節ずつ伸び,2枚の対生した葉をつける.茎は二またに分かれる.それは主軸が成長を中止し両側の側枝が成長するためで,叉状分枝(ヒカゲノカズラ)と区別して,偽叉状分枝という.この枝の成長様式から株は球形となる.花は2~3月にかけて枝先にふつう3個つくので,果実も3個ずつ付く(左図,セイヨウヤドリギ Fucks 1542).

冬枯れの林に,緑の葉を茂らせていることから,万葉時代には長寿や永遠の繁栄の象徴として尊ばれていた.『万葉集』十八,4136には,越中の国庁に派遣されていた大伴家持が,天平勝宝2年(700)の正月の宴会の席で披露した,ヤドリギの古名「寄生(ほよ)」によせた祝いの歌が載る.
「天平勝宝二年正月二日、国庁に饗(あえ)を諸(もろもろ)の郡司等に給ふ宴の歌一首 「安之比奇能 夜麻能許奴礼能 保与等理天 可射之都良久波 知等世保久等曽(あしひきの 山の木末(こぬれ)の寄生(ほよ)取りて 挿頭(かざ)しつらくは 千歳(ちとせ)寿(ほ)ぐとぞ)」(山の梢のから寄生(ほよ)を取って、髪に挿したのは、千年の命を祝う気持からです。「新編古典日本文学全集 萬葉集4」小学館).

また,平安時代には宮中の行事に使われたのか,『延喜式』巻第四十,造酒司の「践祚大甞祭供神料」の項には,「中取案/高闌料。檜葉真木葉各五担。弓弦葉(ユズルハ)寄生(ヤトリキ)各十担。真前葛(マサキノカツラ)日蔭山孫(ヒカケヤマヒコ)組各三担。---」とある(右図,国史大系 第13巻(経済雑誌社 編,1897-1901)).

「やどりぎ」はいくつかの古典文学に取り上げられているが,その多くがヤドリギではなく,大きな木の叉に鳥など運ばれた他の木の種が成長した「宿木」を題材にしたものと考えられる.

★清少納言『枕草子』(四七段)には「木は 桂。五葉。柳。橘。 そばの木、はしたなき心地すれども、花の木ども散りはてて、おしなべたる緑になりたる中に、時もわかず濃き紅葉のつやめきて、思ひかけぬ青葉の中よりさし出でたる、めづらし。 檀(まゆみ)更(さら)にもいはず。そのものともなけれど、やどり木といふ名いとあはれなり。榊、臨時の祭、御神樂のをりなどいとをかし。世に木どもこそあれ、神の御前の物といひはじめけんも、とりわきをかし。」とあるが,単に名前の趣を楽しんでいるように思われる.

★紫式部『源氏物語』(宇治十帖)
『宿木(第七章 第五段)』 「宿り木と思ひ出でずは木のもとの 旅寝もいかにさびしからまし」
『東屋(第六章 第九段)』 「宿り木は色変はりぬる秋なれど  昔おぼえて澄める月かな」
『蜻蛉(第四章 第四段)』 「我もまた憂き古里を荒れはてば  誰れ宿り木の蔭をしのばむ」
「東屋」の歌では秋に葉の色が変わるので,「宿り木」は「ヤドリギ」ではないといえよう.

★芭蕉『発句集 笈の小文』には,「貞亭5年(1688)45歳 二月四日(網代民部雪堂)網代民部雪堂に會「梅の木に猶やどり木や梅の花(うめのきに なおやどりぎや うめのはな)」」

ヤドリギは本草綱目にも記載された薬効があるとして,薬として使用されていた.(続く

2012年12月5日水曜日

ホルトノキ (2/3)  物品識名,蘭説弁惑,厚生新編,本草綱目啓蒙,草木育種,牧野

Elaeocarpus sylvestris var. ellipticus
2009年11月 香取神宮
一旦成り立った「ヅクノキ」=「膽八樹」=「オリーブ」の式は,江戸時代の終わりまで続く

WUL
岡林清達・水谷豊文著『物品識名』(1809 跋) には「ホルトガル ヅクノキ  膽八樹 篤禄香附録」とある(左図).

また,大槻玄沢 口授,有馬元晁 筆記の『蘭説弁惑』(1788 序,1799 出版)には,玄沢に弟子たちが蘭学の種々の疑問を問うという,今でいう FAQ の形式の問答が記され,その一項目として
「○ほるとがる
間ていはく。俗に続随子(ぞくすいし)を「ほるとがる」といひ、又、持渡りの油薬にも「ほるとの油」といふものあり。願くは其正説を聞ん。
答曰。「ほとるがる」本(もと)和蘭の地よりは西隅にある国の名なり。支那にて波爾杜瓦爾と音訳す。本名「ぼるちゆがる」なり。むかし比国の船多くわたりしよし、其ころ、その国の辞(ことば)、この方に伝りて今に残れるもの「かつぱ」「すつぽん」「いのんど」「まんていか」「ひりゃうづ」の類なるべし。此ほるとの油も其国の名産にて、且その国人の初めて持渡りしもの故、その国の名を直(しき)に称したる者と見ゆ。此物本(もと)「おれいふ・ぼふむ」といふ木の実の絞り取りたる油なり。和蘭地方にて、専ら薬用に使ふ油、皆是なり、此国にて胡麻油(ごまあぶら)を使ふがごとし。
NDL

此油の本名「おれうむ」、又木の名を「おれいふ」といふよりして、総(すべ)て油の事を「おれうむ」或は「おれいふ」など惣名になりたるなり。我邦(くに)豆州(いず)にては「葉細(はほそ)」、紀州にてはづくの木と称する木あり。此「おれいふ・ぼうむ」の種類なりといふ。図を和蘭本草より出して爰にしめす。」とあり,次に三葉の図があり,それぞれ,次のように
 ほるとがるの図 本名「おれいぼうむ」 「どゝねうす」の本草に出す
 おなじく 連花実図
 野生 おれいふ・ぼうむ枝朶図」と説明がある.
左図は原出典のドドエンス『本草書』(Crŭÿde boeck),1563年刊のラテン語版(左方),1578年刊の英語版(右方,仏語版よりの重訳)のオリ-ブの木の挿絵.

簡略ながら葉は対生と見て取れる.一方ヅクノキの葉は,源内の図に示されるように互生である.この違いからヅクノキ≠オリーブが分かっても良さそうなものだがと思ってしまう.
NDL

フランス人ショメール (Noël Chomel, 1633 - 1712) による『家事百科辞典 Dictionnaire œconomique 』をシャルモが蘭訳した『 Huishoudelijk Woordenboek 』を,幕府の命令で馬場貞由らが訳し,大槻玄沢が校閲した『厚生新編』巻一(1811 翻訳開始)の「葱」の項には,「酒或は水にて煮たるものに膽八樹子油(ほるとがるのあぶら)を加へ搗き交ぜ,再び煮て軟膏となし,産婦腹腸彎痛(ふくてうわんつう)〈按に産に臨むで陣痛(しきりいた)むの症なり〉をなすに臍(へそ)の下に貼(は)りて効あり.」とあり,「オリーブ油(ほるとがるのあぶら)」=「膽八樹の実の油」つまり,膽八樹=オリーブと考えられていたことが分かる(左図).

さらに,小野蘭山『本草綱目啓蒙』(1803-1806) 巻之三十 木之一 香木類においても,「篤耨香 〔一名〕篤槈(通雅)篤禄香(同上)」の項に「〔附録〕胆八香 ホルトガルノ油 披爾杜瓦爾(ホルトガル)ハ蠻国ノ名ナリ。紅毛人コノ地ヨリ采来ル故ニ,ホルトガルノ油ト云。コノ樹,本邦暖地ニ多シ。喬木ナリ。寒地ニ移シ栽ルモ育シ易シ。俗名ヅクノキ(紀州) シラキ(九州)モウガシ(薩州)バボソ(豆川)シイトギ(阿州) 葉ハ楊梅葉ニ似テ,薄ク,長サ三寸許ク,鋸歯粗ク,互生ス。四季ニ葉換ル。其落ントスルトキ色赤シ。故ニ年中紅葉相雑ル。夏葉聞ニ枝叉ヲ出シ花ヲ開ク。黄色ニシテ粉ノ如ク,竹柏ノ花ニ似クリ。後実ヲ結ブ。長サ六七分・両頭尖リ稚実ニ比スレバ徴シ狭小,外皮ハ熟スト雖ドモ緑色ナリ。内ニ厚核アリ,核中ニ仁アリ。是ヲ搾リテ油ヲ采。即,ホルトガルノ油ナリ。蛮名ヲーリー(油)ヲレイフ。蛮産ハ実大ナリ,和産ハ小ナリ。近来続随子(注ホルトソウの実)ノ油ヲ以テ偽リ売モノアリ。麻油ノ如ニシテ色白シ。真物ハコリテ色黄ナリ。混ズベカラズ。」とあり,「葉ハ(中略)互生ス」とはっきりと見ていながら,オリーブとしている.また,種子の仁を搾るとオリーブ油が取れると,実際のオリーブ油とは異なった採取法を示しているが,これはヅクノキの実の種子が大きくて,薄い果皮(果肉)からは油は取れないことが分かっていたからであろう.

★岩崎灌園(1786-1842)は『草木育種 巻之下』(初版文化15年 (1818))に,ホルトノキを「膽八樹(ほそは)」として記し,暖かい地方には自生するが,若木の防寒に気を付ければ江戸でも大木に育つ.とし,さらに,果実を搾って得られる油はオリーブ油の代りに使えるとした.ホルトノキはオリーブの木とは異なることは認識していたが,実からは油がとれるとしている.

「膽八樹 (ほそは)」本艸 八丈島にて細葉のきといふの也.俗にホルトガルと云
九州房州豆州にあり実をとり油を窄(しぼり)ヲレイフ油の代用とすべし
江戸にも園に栽て大樹(たひじゆ)となすべし小木ハ雪霜をよけべし」


このような誤同定に対して,牧野富太郎博士は『続牧野植物随筆』(1948)「オリーブは橄欖であるの乎」では「従来日本の学者はオリーブを我邦に産するモガシ科のモガシ,一名ハボソ,一名ヅクノキ,一名シラキ,一名シイドキ(学名は Elaeocarpus elioptica Makino)であると謂ひ,此モガシを支那の膽八樹だと謂ってスマシてゐたが,其れは何れも皆意外な大間違ひであった事が分った,そして此過ちを敢て為た学者は小野蘭山,平賀源内等であった,」としるし,また『随筆 植物一日一題』(1953)の「オリーブとホルトガル」の項で,「我国の徳川時代における本草学者達はヅクノキ一名ハボソを間違えて軽率にもそれをオリーブだと思ったので、今日でもこの樹をホルトノキ(ホルトガルノ木の略)と濫称しているが、それは大変な誤りだ。そしてこのヅクノキをオリーブと間違えるなんて当時の学者の頭はこの上もなく疎漫で鑑定眼の低かったことが窺われる。」といって,この誤鑑定をコテンパンにやっつけている.

江戸時代における本草学者は,偉大な先人の同定になかなか異を唱えることは出来なかったし,特に実際には油しか入ってこなかったオリーブを,蘭書の記述や図のみで比定していたという事情を踏まえると,又まして源内は蘭医に試料を示して確認をしているので,この誤りには大いに同情すべき点があると思う.

牧野博士の「ハボソをオリーブと間違へたので,乃(そ)こで此ハボソ即ちモガシをホルトノキと呼び,其誤認の称呼が今日でも尚ハボソにウルサク附き纏ひ不用意な人々は此ハボソをホルトノキと誤称してゐる.」(「オリーブは橄欖であるの乎」)と,「ホルトノキ」は使うべきではないとの主張はあったものの,現在「ホルトノキ」が標準的な和名である.

2012年12月1日土曜日

ホルトノキ (1/3) ホルトカル,ヅク,貝原益軒,加地井高茂,平賀源内,膽八樹,物類品隲

Elaeocarpus sylvestris var. ellipticus
2009年11月21日 香取神宮
茨城県の香取神宮には,「ホルトノキ」という奇妙な名の樹木が植えられている.この名は「ポルトガルの木」の意味とのこと.日本在来の樹木にどうしてとこんな名前が?と調べてみたら,平賀源内(1728 - 1780)が紀州でこの木を見て,オリーブ(の木)と誤認したかららしい.
オリーブ油は,江戸時代オランダ医学の外科で良く使われ,原産地にちなんでポルトガル油とよばれていて,オリーブの木は「ホルトカル」と呼ばれていた.

WUL
貝原益軒大和本草』宝永6年(1709) 巻之十二 木之下 雑木類 には「蛮種 ホルトカル,其実杏子ニ似タリ.蛮醫之ヲ用イ瘡瘍等ノ外治ニ用イル事香油ヲ用ルカ如シ.ホルトガルハ蠻戎ノ国ノ名ナリ.其國ヨリ出ル故ナツケシニヤ.」とある.(左図 NDL)

また加地井高茂 編『薬品手引草』(1843)には右図のように「ホルトガル バン国ノ木ノミノアブラナリ」とある.(右図 WUL)

もちろん日本にはないので,オリーブ油は高価な輸入品であった.ところが,宝暦10年(1760)6月,平賀源内は高松候松平頼恭(よりたか)の帰国に随行し,その命により紀州で介類を採集した.その際湯浅深専寺でヅクノキと呼ばれる木をみつけて,その実が輸入されていた紅毛図譜で知っていたオリーブの実に似ていたことから,これをオリーブの木ではないかと考えた.

源内は,紀州藩にこの発見を報告したらしく,宝暦12年(1762)刊行の『紀州産物志』には,「御国(紀州)之湯浅之寺ニホルトカルト申木御座候.甚珍木ニ而御座候.人存不申候.此木之実ヲ取,油ニシボリ候ヘハ,ポルトガル之油ト申候而,蛮流外療家常用之品ニ御座候」と記した.
さらに,彼は宝暦13年(1763) 3月に,蘭館長参府に加わって江戸を訪れた医師ボステルマンにこの木を示し,それがオリーブ樹かどうかを質問したところ,確かにオリーブの実だといわれ,「ヅクノキ」 はポルトガル油の取れる木,ポルトガルの木=ホルトノキということになってしまった.ボステルマンはオランダ人で,地中海沿岸の温暖な地が主な生産地であるオリーブの形状には詳しくなかったのであろう.

さらに彼はヅクノキは,『本草綱目』の木之一の「篤耨香」の項にある「膽八樹」*と同じだとして,ここに「ヅクノキ」=「膽八樹」=「オリーブ(ホルトノキ)」の式が成り立ってしまった.

そして,宝暦13年(1763)7月出版の『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』「巻の四 木部」で
「△膽八(たんばん)香 篤癒香附録二出タリ 和俗ポルトガルノ油ト名ズク ポルトガルハ蠻国ノ名ナリ 此モノ其国ニ出ル故二名ヅク 紅毛語ヲ「ヲヲリヨヲレイヒ」ト云 「ヲヲリヨ」ハ油ナリ 「ヲレイヒ」ハ此木実ノ名ナリ 此物功用 綱目二出タリ 又悪血ヲアゲ肉ヲアゲ 一切乾タルヲ潤シ 筋ヲノバシ痛ヲ和ク 服之麻疾ヲ治ス以上紅毛人カスハル口授ノ功能ナリ 又紅毛人平常ノ食用トス〇蠻産紅毛人持来
○擔八樹 東璧日ク擔八樹生交南番諸国 樹如稚木犀ノ葉鮮紅色類霜楓ニ其ノ實圧シテ油ヲ和諸香爇之ヲ辟悪ノ気ト則チ此實ノ仁ヲ取テ抽ニ搾タルモノヲヲリヨヲレイ 和俗ノ所謂ポルトガルノ油是ナリ
○紀伊産方言ヅクノ木ト云湯浅深専寺内ニ大木アリ高七八丈周囲一丈三四尺其他紀伊地方二多シ葉形冬青樹及木犀二類ス経冬ヲ不凋葉四時ニ落ル時至テ鮮紅色可愛實形大棗ノゴトク熟シテモ色青シ 庚辰歳ノ予紀伊ニ游テ始テ是ヲ得クリ蠻産ノ實ヲ以テ是ヲ較ルニ蠻産ハ大ニ和産ハ小ナリトイヘドモ全ク同物ナリ 或日是橄欖ノ一種ナリト此説甚ダ非ナリ 橄欖ハ絶テ別ナリ 又今些三月紅毛人東都ニ来ル 予是ヲ携テ紅毛外療ポルストルマンニ質ス亦眞物ナリト云 小川悦之准伝訳蠻人ハ實ヲ酢二漬テ是ヲ食フ 味酸甘ナリ 又和俗続随子ヲポルトガルト称スルハ大ナル誤ナリ」
と記して,実は小さいものの,この擔八樹をホルトノキ,すなわちオリーブと同定している(左図).

この「ヅクノキ」=「膽八樹」=「オリーブ(ホルトノキ)」の等式は,永く多くの本草学者の認識となった. (続く)

*本草綱目/木之一 篤耨香 【附錄】膽八香 時珍曰︰膽八樹生交趾、南番諸國。樹如稚木犀。葉鮮紅,色類霜楓。其實壓油和諸香 之,辟惡氣。

ホルトノキ (2/3)  物品識名,蘭説弁惑,厚生新編,本草綱目啓蒙,牧野
ホルトノキ (3) 宇田川玄真著,宇田川榕菴校補『遠西醫方名物考』

2012年11月23日金曜日

キジバト (3/3)大和本草,和漢三才図会,本草綱目啓蒙,鳩と鴿

Streptopelia orientalis
庭の木に営巣していたキジバト,孵化したのだが,残念ながら雛は二羽とも猛禽類に食べられてしまったようだ(目撃証言はないが).
1.タマゴは二個.親鳥に比べると大きめかなと思う白い卵(親鳥の交代時に撮影)が見られた(前記事).
2.親の羽の下がもぞもぞと動き,親はのどから吐き出したピジョンミルクという,半消化物を与えている様子.(上図,親鳥の羽の下にひな鳥の羽が見える)
3.その二日後には巣は空っぽになっていて,親鳥もいなかった.家内はノスリのような猛禽類が近くの電線にとまっていたのを見たとのこと.
親鳥はいったん空の巣に帰ってきたが,二羽で悲しそうに鳴きながら東の空に去っていった.親鳥の交代時に食べられたのではないかと思う.成長を楽しみにしていたのに残念であった.

江戸時代にもハト類,特にキジバトの本草食物としての評価は高く,またその行動や泣き声の特長もよく観察されていた.特に巣の様子は目を引いたようで,粗末な巣にも,雨のとき水がたまらないから良いのだとも評されている.

★貝原益軒『大和本草』 (1709)
本邦四品アリ。斑鳩(ツチクレバト)・トシヨリコヒ・山バト・鴿(イヘバト)ナリ。ツチクレバトハ斑鳩ナリ。山バトハ青●(隹+鳥=スイ)(あおばと)ト云。トシヨリコヒハ腹毛淡白、背毛淡灰色、ツバサノ端黒シ。筑紫方言ヨサフジバト
本草ヲ考ルニ、斑鳩性甚ヨシ。虚ヲ禰フ。殊ニ久病ノ人老人ヲ養ナフ。青●(隹+鳥)モ性ヨシ。鴿ハ補益ノ功ヨリ悪瘡疥癬外治ノ能多シ。鳩四品トモニイヅレモ性ヨシ。斑鳩・トシヨリコヒ・山バト、些三品共二下血ヲ能トドム。塩ニ蔵シテ尤効アリ。味曽ニテ煮テ時々空腹ニ食ス。甚効アリ。是脾胃ヲ補フ故ナリ。

★寺島良安『和漢三才図会 林禽類』(1713頃),現代語訳 島田・竹島・樋口訳注,平凡社-東洋文庫
斑鳩(はと,パンキュウ)
『本草綱目』(禽部、林禽類、斑鳩)に次のようにいう。斑鳩は状が小さくて灰色のもの、および大きくて梨花点のように斑になったものは善くなかない〔いまでいう壌(つちくれ)鳩、雉鳩の類〕。ただ項(うなじ)の下が斑で連珠のようになったものは声は大きくてよく鳴く。これを媒(おとり)にして鳩をおびきよせるとよい〔いまでいう八幡鳩、数珠懸(じゅずかけ)である〕。
鳩の本性は愨孝(すなお)であるが巣をつくるのは下手である。わずかに数茎を架けただけの巣なので、往々にして卵が堕ちる。雨が降りそうになると雄は雌を追い出し、晴れると雌を呼び返す。それで、鷦鷯(みそさざい)は巣をつくるのが巧みだが、そのためかえって巣は危く、鳩は巣をつくるのが拙(へた)で、そのためかえって安全である、とか、あるいは雄は晴を呼び、雌は雨を呼ぶ、とかいう、と。
肉〔甘、平〕 目をはっきりさせたり、陰陽を助けたり、久しい病による虚損を治すことを主(つかさど)る。また気を補い、唆せてのどにつかえないようにさせる。
△ 思うに、斑鳩には数種あって、俗に壌(つちくれ)鳩、八幡鳩、南京鳩という。
壌鳩〔豆知久礼波止〕 鳩類の中の最も大きいもので、常に山林に棲んでいて人家には近づかない。頭・背は灰黒色に赤斑の彪(ふ)が相交っていて錦のようである。胸・腹は柿赤色、觜(くちばし)は蒼、脚は淡赤色、尾の本は灰色で末(さき)は黒、鳴き声は短い。味はよい。九州の産が最も佳(よ)く、食べて薬となるのはこれである。(以下略)

空になった粗末な巣
★小野蘭山『本草綱目啓蒙 禽之三 林禽類 一十七種』(1803-1806)
斑鳩 ジユヅカケバト ジユヅバト ハチマンバト トシヨリコイ
斑鳩ヲ、イカルガト訓ズルハ非ナリ。播州ニ斑鳩寺アリ。イカルガ寺ト読。又地名ニモ斑鳩アリ。然レドモ、イカルガハ斑鳩ノ訓ニ非ズ。桑鳲ノ古名ナリ。又ツチクレバトト訓ズル説アリ。亦非ナリ。斑鳩ハ市中へハ稀ニ来ル。山村ニハ此鳥多クシテ、鴿(イヘバト)ハナシ。ソノ形状鴿ニ同ジクシテ微小サク、羽色数十品アルコトモ鴿ニ異ナラズ。皆頸項二白斑文アリ。数珠ヲ挂(かけ)タル状ニ似タリ。鳴声トシヨリコイト云ガ如シ。京ニテ鳩(キジバト)ヲ、トシヨリコイト云。同名ナリ。然レドモ其声ニ小異アリ。鳩ハ声濁リテ、トシヨリコイコイト鳴。九州ニテ与総次コイコイト鳴ト聞テ、与総次バトト呼。奥州ニテハ、テテイポウポウカ、アポウポウト鳴ト聞ユ。皆後コイコイト重ネ鳴。斑鳩ハ声高クスミテ、トシヨリコイトノミ鳴テ、コイコイト重ネズ。凡鳩鴿形同ケレドモ、鳩類ハ皆巣ヲ木ニ構フ。鴿類ハ巣ヲ堂塔ノ簷(ひさし)或ハ土庫中ニ構フ。
と鳩と鴿とは形はよく似ているが,住む場所が異なるとしている.

現代中国でも鳩(もともと野生のハト)と家鳩(カワラバト・ドバト)との区別は漢字の上でされていて,キジバトは山斑鳩,ドバトは原鴿で表されている (from Wikipedia China).

山斑鸠(学名:Streptopelia orientalis)是鸠鸽科斑鸠属的一种中等体型的鸟,也叫山鸠、金背鳩、金背斑鸠、麒麟斑、麒麟鸠、雉鸠、棕背斑鸠、东方斑鸠、绿斑鸠、山鸽子、花翼、大花鸽、大花斑。
原鸽(學名:Columba livia),又名野鸽子、野鸽、脖鸽。为人类所驯化的原鸽被称为家鸽。

キジバト (1/3) 仲のよいご夫婦
キジバト(2/3) 古事記,日本書紀,和名類聚抄,本朝食鑑

2012年11月19日月曜日

キジバト(2/3) ドバトとの違い,古事記,日本書紀,延喜式,和名類聚抄,本朝食鑑,壌鳩,家鳩

Streptopelia orientalis
庭のサクラの木に,キジバトのご夫婦が巣を作って,こもり始めた.それまでは頻繁に鳴き交わしていたが,巣篭もりし始めてからは,朝の交代時に短く鳴く声を聞くだけになった.かわるがわる卵を温めているのだろう,二階から双眼鏡で見ていると,時々姿勢や向く方向を変えるだけで,じっとしている.雨の日には羽を広げ気味にして,卵に雨が直接当たらないようにしているようだ.交代のときに2個の卵が巣の中にあるのが見て取れた.

キジバトは日本に原生のハトで,今大きな顔をして都会の広場を占拠しているドバトは,奈良時代に大陸から入って帰化したカワラバト(Columba livia).長い間キジバトは食用とされていたため,人家の近くには現れず林間を住家にしていたが,近年,狩猟の対象にされなくなり,人家の近くでも営巣するようになった.カワラバトは川原の崖の穴を巣としていたので,鳩小屋でも飼育でき,野生化すると,マンションのベランダやお寺や神社の塔などの建造物に巣を作り,迷惑がられている.一方,キジバトは木の枝に巣を作るし,またあまり群れを作らないので,迷惑者とはなっていない.

★太朝臣安萬侶『古事記(下)』(712),「允恭天皇」の章で,同母妹の軽大娘皇女(かるの おおいらつめ)と情を通じ、それが原因となって允恭天皇の崩御後に廃太子され伊予国へ流される木梨軽皇子が,捕らえられたときに軽大娘皇女に与えた歌「阿麻陀牟 加流乃袁登賣 伊多那加婆 比登斯理奴倍志 波佐能夜麻能 波斗能 斯多那岐爾那久」「天飛(あまだ)む 軽(かる)の嬢子(おとめ) いた泣かば 人知りぬべし 波佐(はさ)の山の 鳩の 下泣(したな)きに泣く 」(天飛(あまだ)む軽(かる)の乙女(おとめ)よ。ひどく泣いたら、人が知ってしまう。波佐(はさ)の山の鳩のように、忍(しの)んで泣くがよい。)と歌われた悲しげに忍びなく声でなく波斗(ハト)は,キジバトであろうと考えられている.この歌は,舎人親王ら撰『日本書紀』(720)第十三「雄朝津間稚子宿禰天皇 允恭天皇」にも,「阿摩儾霧、箇留惋等賣、異哆儺介縻、臂等資利奴陪瀰、幡舍能夜摩能、波刀能、資哆儺企邇奈勾」と記載されている.なお,「したなき」とは下泣で、心のうちで泣くこと、ひそかに泣くこと、しのびなき」と『デジタル大辞泉』にはなっている.キジバトのくぐもった感じの声を現しているのであろう。

NDL
今はハトの漢字は「鳩」が一般的だが,古語では「鳩」はキジバトなどの野生のハトで,「鴿」がイエバト(飼育されているカワラバト)を表した.★源順『和名類聚抄』(931 - 938),那波道円 [校](1617)『和名類聚抄』(羽族之名第二百三十一)(左図).

「鳩」つまりキジバトは古くから食用とされており,『延喜式』 (927)によれば、宮中食を掌る内膳司に直属の御厨から鳩を献じている。御厨から献じたものは、「生物(なまもの)」として生肉等を使用したものと思われ,『延書式』の「内膳司」の巻の「諸国貢進御贄」の項に「旬料」として「大和国書野御厨所進鳩。従九月至明年四月」の記事を載せる。王朝時代の行事食にキジバトの肉が供されたのであろう。

江戸時代の食物本草として名高い★ 人見必大『本朝食鑑』(1697)の「禽部之三 林禽類」には(右下図),
「鳩 波止(はと)と訓(よ)む。
〔釈名〕 壌鳩(つちくればと)。古俗。雉鳩(きじばと)。今俗。○以上はいずれも俗称である。壌の字をあてるのは何故かわからない。雉鳩というのは、毛羽が雉に似た斑をしているので、こう名づけるのである。
〔集解〕 鳩とは、この類の総称である。先ず壌鳩をもって第一とする。その形状は、蒼灰色と紫赤色とが相交わって錦のようであり、啄(くちばし)・脚は淡い赤色で、鳩類のうちでは最も大きい。常に山林に棲んでいて、人家には近づかず、声は短い。味は美(よ)く、大抵(ふつう)、海西(さいごく)の産が勝れており、九州の産は、味も鳬鴈(がん)に劣らぬものが多い。(中略)

〔気味〕 甘平。無毒。
NDL
〔主治〕気を益(ま)し、腎を補い、のどにつかえさせない。また能く目を明らかにする。
〔発明〕今俗、鳩酒・鳩の羹(あつもの)に製して、冬月飲食したり、あるいは寝るまえに毎(つね)に食べたりしている。そして次のようにも謂う。能く腹中を温め気を杜にする。久病・虚羸(キョルイ)の者は大変肥健になるし、老人が常に食べると長生きできる。これは鳩の性が温だからである、と。
必大(わたくし)の考えでは、鳩の性は温ではない。温ならどうして腎水補うことができようか。ただ、既に酒気を帯びている場合にはそういえる。鳩の性は平であって、陰陽を助けるものである。それで、久病・虚損に用いる場合は、気を益し、血を養う。老人に用いる場合は、気を助け、血を滋し、噎(むせ)ばない。鳩の性は噎ばないからである。『周礼』にある、「仲春に国老を養い、仲秋に鳩の杖を授ける」とは、このように鳩が老人によいことをいうのである。」と,キジバトの肉は雁と同じくらいおいしくて,よく食べられていること,薬用・補用として,特に老人に効果があるとしている.
更に,同書の「穀部之二,酒」には,「鳩酒」という項もあり「鳩酒。腰痛および老人の下冷えを治す。その法は、肥えた鳩の腸(はら)毛および頭尾・翅脚を取り去って、肉を割き骨を砕いて研爛(すりつぶ)し、酒で煮る。やり方は(生)姜酒と同じである。」とハトの挽肉を酒で煮たものが健康酒として効果があるとしている.

NDL
一方,イエバトに関して同書には「鴿 以倍八止(いへばと)と訓む。
(集解〕 鴿は家鳩(いへばと)である。今、各家でこれを畜(か)っている。能く馴れて人を恐れず、鶏や犬といっしょに餌を覓(もと)める。唯、猫・鼬・鳶・烏だけが害をなす。屋上に棲(すみか)を構え、局所に窓を開けて出入する。匹偶(ひとつがい)は常に一局を守って、他の匹偶を拒んで入れない。性質は淫で、交合しやすく、よく卵を生むが、やはり荐(しきり)に卵を抱伏(だ)いて能く育てている。それで、種類も蕃(はなはだ)多(おびただ)しい。もし近隣の養鴿を招集したいと思えば、新しい棲を営造し、香を焼き、米・菽(まめ)をまけばたちまち来居すると伝えられているが、予(わたし)はまだこれを試していない。(中略)また野鴿もおり、俗に堂鳩という。これは、源順(『和名抄(和名類聚抄,左上図)』)が、「頸が短く、灰色をしている」といっているものであろうか。
我が国では、鴿を食べることは少ないので、まだその気味はわからない。ある人の話によれば、山人に儘、鴿を食う者がいて、その気味は甚だ臊気(なまぐさみ)があるというが、これも未詳である。」(読み下し,現代語訳,島田勇雄訳注 『本朝食鑑』平凡社-東洋文庫)とあり,イエバトは食用としては旨くはなく,人気がないとしている.(続く)

2012年11月4日日曜日

ツルボ (3/3),日葡辞典,ケンペル,ツンベルク,シーボルト,牧野


Scilla scilloides
ツルボにはスミラやスミレ,スミナなどの地方名もあり,江戸時代初期の「日葡辞典」(日本イエズス会,1603)のスミレの項に、「スミレ(菫)この名で呼ばれる,ある草.その根はニンニクに似ていて,食用にされる.」とある.また,別項として,「スミレ(菫)ある花の名」とあり,前のスミレはツルボ,後のスミレは現在のスミレと思われる.

日本の植物を西欧に紹介した江戸時代の出島蘭館の医師たち,ケンペルの『廻国奇観』(1712)には,”Kui Symira, id est, Symira edulis”,クイシミラ即ち食用にされるシミラが記載され,,その前の項の “石蒜, Seki san, vulgo Sibito banna, aliis Doku Symira, i. e. venenosa Symira” という,ヒガンバナがドクシミラ即ち有毒なシミラと呼ばれているとされていることと合わせると,このクイシミラがツルボと考えられる.(左図,上)
さらに,カール・ツンベルク『日本植物誌』(Flora Japonica)(1784)には,Ornithogalum japonicum の学名で,”Mensoni, it. Kui Simira, i. e. Simira edulis.” と呼ばれ,彼が長崎,江戸で観察し,9月に花が咲く植物が記載されていて,これは明らかにツルボである(左図,下).

ツルボがスミレという名で呼ばれていた事は,前に述べた貝原益軒の『大和本草』(1709) のツルボの項に「是ヲスミレと云ハ誤レリ」と書いてある事からも分かり,江戸時代まではこの系統の地方名が多く存在したことは語源ともに興味深い.
詳しくは栗田子郎先生のHP (ヒガンバナ民俗・文化誌~5:渡来説再考ー3) のツルボの項に東アジアの名称からも考察された記事がある.

また,シーボルトは,出島の植物園で多くの植物を育て,1830 年に帰国する時には 500 種 800 株の植物を積み込んだ.長い航海の末にオランダに届いたときには大半が枯れていて,ヨーロッパに移植が成功したもので 1844 年に生き残っていたのは 204 品種であった.シーボルト自身が導入したものはその内 129 種とされていて,彼が販売のために出版した名称一覧表に「フォン・シーボルト輸入、ヘント植物園、一八三〇年」と付記している植物群の中に,イカリソウ,シキミ,サネカズラ,サルトリイバラなどと共に,ツルボが見られる(石川禎一『シーボルト 日本の植物に賭けた生涯』2000).食用としてか,薬用としてか,あるいは観賞用としてか,シーボルトは欧州への導入する価値があると評価したのであろう.

牧野富太郎は『続牧野植物随筆』(1948) の「明きめくら菫をスミレと勘違い」の項で,「(前略)スミレの語に類似した名にスミラと謂ふものがある,其れは九州の肥前,肥後,筑後などで土地の人に由てさう呼ばれてゐるのだが,其實物はユリ科のスルボ即ちツルボである,そして其スルボの語は或はスミラの転訛ではなからう乎とも想像せられまいものでもない,」と述べている.また,「叉更にスルボの一名をサンダイガサと謂はれるが,是れは参内傘の意で其花穂の姿から来た呼称である,此参内傘は能く昔の公卿の行列に見るもので宮中即ち内裏へ参内する時用ゆる傘であるから其れで参内傘と謂はれる,そして其傘を畳んでつぼめた状を,抽きたってゐるスルボの花穂に擬したものである.是は土地の方言ではなく多分昔の物識り人が考案して負せた名であろらう.」とサンダイガサの語源も推察している(右図).

一方,『万葉集』巻8の山部赤人の歌「春の野にすみれ採るみにと来しわれぞ野をなつかしみ一夜寝にける」の“須美礼”は,このツルボだったのではないかと考える方もいるが,ツルボ(1)(2)に述べたように,ツルボの球根は手間をかけて毒成分を抜かなければ食用とならない上,決して旨いものではない.この須美礼はスミレ科のスミレとしたほうが,合理的でなおかつ絵になる.

2012年10月23日火曜日

ヨウシュヤマゴボウ (2/2) 真紅の実,インク,ワインの着色,太陽光発電パネル

Phytolacca americnana

緑だった果実が,赤紫色に色づいた.
原産地アメリカでは,野草としては目立つためか,有毒ながら食用や薬用として広く用いられていたためか,此の植物には異名が多く,American cancer, American nightshade, American spinach, bear’s grape, cancer-root, coakum, garget, inkberry, inkweed, pigeonberry, poke, pokeberry, pokeroot, pokeweed, red-ink plant, skoke berry, Virginia poke 等十指にあまる.

未熟な実
 ラテン名の属名はギリシャ語の「植物」+ フランス語の「紅い色素のとれる」,種小名は「アメリカの」で原産地に,また米国で一番広く用いられている “poke” はネイティブアメリカン語の「血液―PAK」から来ていて,どちらも,特徴的な果実の赤い色素に由来している.
紅色のこの実を子供が遊んで誤って食べ中毒することも多いことから,米国では庭に生えてきた場合は直ぐに抜く事が勧められている.幼児の場合には数個の実の摂取で死にいたることもあるとか.

しかし,この汁には意外な使い道がある.一つはインクとして用いることで,英名の inkberry, inkweed はそこから来ている.一説にはアメリカ合衆国の憲法はこのインクで書かれたとの事(未確認).実をポリ袋に集めて外からつぶすと,美しい紅色の抽出液がとれ絵具やインクに使えるが,皮膚からも吸収されることから,素手でさわるのは危険.但し,水や日光には弱い.

もう一つはワインの着色剤.昔はこの汁で白ワインを赤ワインに,安い赤ワインを高級なものに変身させていたとか.ヨウシュヤマゴボウのヨウシュは洋酒に由来するという説もあるほど.有毒なのに大丈夫だったのかと昔の事ながら気になってしまう.

また,最近ではこの色素液を用いることで,低出力ながら安価な太陽光発電のパネルの製造をしようとの研究もされている.(http://www.newsobserver.com/2011/12/19/1719502/the-purple-power-of-pokeweed.html

2012年10月17日水曜日

ツルボ(2/3) 広益地錦抄,花彙,物類品隲,本草綱目啓蒙

Scilla scilloides
 伊藤伊兵衛『広益地錦抄』(1719) には,「綿棗児(つるぼ) 田野に多く宿根より生ス 根も葉も山慈姑(サンシコ,注アマナ)のことく 春生夏藤いろなる穂のことくに花さく たかさ四五寸のおきなさうの花のごとく 根は多くしげりて畑のさまたげとなる俗にウシウロウと云」と,春に芽を出し夏に穂状の薄紫の花を咲かせる.畑の強雑草となっているので「ウシウロウ」と呼ばれている.と記している.「ウシウロウ」が畑の作物がツルボのため取れず貧窮して「牛売ろう」になったのであろうか?また,花が「おきなさうの花」に似ているというのは,色も形もオキナグサとは異なるので,「おきなさう」はオキナグサとは異なる植物であろう.同人の『花壇地錦抄』(1695)△草花秋之部には,「白頭草(おきなさう)(初)花うすむらさき葉ハせきせうのことく春は葉色白シ」とあり,おきなさうが秋に咲く薄紫の花をつけて,更に葉がセキショウ(Acorus gramineus)に似て細く線状ならば,これは春に花が咲いて,葉がいくつかに分れるオキナグサとは異なる.当てはまりそうなのはヤブラン?


小野蘭山『花彙』(NDL)

 小野蘭山『花彙』(1765) には,「綿棗児(メンソウジ)俗名サンダイグサ、又名スルボ, 近道諸山及ヒ処々原野ニ多ク生ス 苗葉冬ヲ凌(シノキ)テ凋(シボ)マス 夏ニ入テ高サ三五寸 葉韮葉(ララノハ)ニ似テヒロク六七月葉中茎ヲヌキ穂ヲ出シ傘子(カラカサ)状(ナリ)ノ如シ 又青箱穂(ノケイトウノホ)ニ似テ 細小淡紅花ヲ開ク 根 獨頭 蒜(ニンニク)ニ類ス 一名石棗兒」とあり,図は「緜棗児」と「綿」と同音同義の「緜」を使っているが,特徴をよく捉えている(左図).

 一方,平賀源内『物類品隲』(1763)には,直接的なツルボの記載は無いものの,巻之三,草部には「貝母 初生綿棗児(ツルボ)ノゴトク長シテ後山丹(ヒメユリ)ニ似タリ 杪ニ至テ細緑絲ヲ出シテ左右二廻旋ス 花百合ニ類シテ黄白色ニ紫点アリ ○漢種上品享保中種子ヲ伝フ」とバイモの芽がツルボに似ているとある.
 また,小野蘭山『本草綱目啓蒙』(1803-1806) にも,ツルボそのものへの言及はないが, 巻之九 草之二 山草類下には「山慈姑 アマナ トウロウバナ トウロン ムギクワヰ (中略) ステツボウ(筑前) カタスミラ(肥前) スミラ(同上) ツルボ(丹波) ウグヒス(摂州)
大葉、小葉アリ。土地ノ肥瘠ニヨル。別種ニアラズ。大葉ハ長サ三尺許、水仙葉ノ如シ。花モ大ナリ。小葉ハ二三寸許、綿棗児(サンダイガサ)葉ノ如シ.花モ小ナリ。」と,ツルボが葉の基準になっていることをうかがわせ,本草家の間では,よく知られていた事がわかる.このアマナの地方名とされている「スミラ」はまた,ツルボの地方名でもある.

2012年10月11日木曜日

ツルボ (1/3) 綿棗児,救荒植物,天明の大飢饉 重訂本草綱目品目附録,救荒本草,大和本草,西遊記

Scilla scilloides
秋になると薄紫色の優しい花の穂を立てる多年草.今は秋の野の花としても見過ごされがちだが,江戸時代にはその球根は飢饉の際の救荒植物として重要だった.

NDL
貝原益軒『重訂本草綱目品目附録』(1762年初刊,執筆 1680 年頃)に,「綿棗児(ツルボ,スイベラ),于救荒本草ニ出 一名ハ石棗児」として見られる(左図).

NDL
これには詳しい説明はないが,引用されている周憲王(周定王)朱橚選『救荒本草』(初版1406)の和刻本(茨城多左衞門等刊,享保元)には,図(右図)と共に「綿棗児(ツルボ,サンダイガサ) 一名ハ石棗児 密縣山野ノ中ニ出ツ 石間ニ生ス 苗ノ高サ三五寸 葉韮ノ葉ニ似テ潤ク尾隴様 葉ノ中葶ヲ攛シ穂ヲ出ス 雞冠莧ノ穂ニ似テ而細小淡紅色ノ花ヲ開キ微シ紫色ヲ帯フ 小蒴児ヲ結フ 其ノ子大藍子ニ似テ而小黒色 根獨顆蒜(ヒトツネノニンニク)ニ類シ又棗形ニ似テ而白シ 味甜性寒, 救飢 根ヲ採取シ水ヲ換久ク煮極メ熟メ之ヲ食フ 水ヲ換ヘ不煮食ヘハ後腹中鳴下氣有」と,「綿棗児」はツルボにあたる事と,食用にするためのその処理法を記している.ヒガンバナほどではないにしても,球根(鱗茎)には有毒物質が含まれ,食用にするにはそれを除くための煮沸処理が必要であった.

貝原益軒『大和本草,巻之九 草之五,雑草類』(1709) には,「綿棗児(ツルボ) 野圃ニ多ク自生ス 葉ハ薤ニ似テ 若キ苗ハ紫色ヲ帶フ 冬モ葉アリ 枯レズ ツルホハ京都ノ方言也 筑紫ニテハ ズイヘラト云 根ハ水仙ノ如シ 救荒本草曰 一名石棗兒 根ハ獨頭蒜ニ似たリ 花ハ莧(ノビユ?)ノ穂ニ似テ淡紅 微シ紫色ヲ帶フ 其子(ミ)小ニシテ黒色 根味甘ク 根オ採取シ水ヲ添ヘ久シク煮テ 極テ熟シ之ヲ食フ 水ヲ換ヘズシテ煮テ食ヘハ 後腹中鳴テ下氣有リ
 國俗ニ 婦人ノ積滯アルニ煮テ食スレハ驗アリト云 虚人ニハ不可也 性冷滑ニシテ瀉下ス 飢人食ヘハ瀉下シヤスク 身ハルルト云 故ニ凶年ニモ多ク食ハス 水ヲカヘテ久シク煮レハ害無 村民之オ知ラズ 是ヲスミレト云ハ誤レリ 水ヲカヘテ久ク煮ル事ヲ貧民ニ教フ可シ」と,植物の形状とともに「ツルボ」は京都地方の方言,筑紫では「ズイヘラ」と呼ぶ.あまり知られていないが,救荒植物として用いられることを『救荒本草』を引用して処理法と共に紹介している.

この知識は,九州地方で共有されていて,天明の大飢饉の際に九州を訪ねた橘南谿 (1753 - 1805) の『西遊記 巻之六』には,彼が経験した以下の惨状が綴られている.
「飢饉 
 近年打続き五穀凶作なりし上、天明二年(注 1782年)寅の秋は、九州飢饉して人民の難渋いふばかりなし。
 村々在々は、かず根といひて、葛の根を山に入て掘来り食せしが、是も暫の間に皆掘つくし、かなづち(注 イケマの根か,ガガイモの根か)といふものを掘て食せり。是もすくなく成ぬれば、すみらといふものを掘りで其根を食せり。 (中略) 
 すみらといふものは水仙に似たる草なり。其根を多く取あつめ、鍋に入れ、三日三夜ほど水をかへ、煮て食す。久敷(ひさしく)煮ざれば、ゑぐみ有て食しがたし。三日程煮れば至極やはらかになり、少し甘み有やうなれど、其中に猶ゑぐみ残れり。予も食しみるに、初め一ツはよし、二ツめには口中一ばいに成て咽に下りがたし。あわれなる事筆の書つくすべきにあらず。予一日行キつかれて、中にも大(おおき)にしてきれいなる百性の家に入て、しばらく休息せしに、年老たる婆(ばば)壱人也。「いかゞして人のすくなきや」と問へば、「父、子、嫁、娘、皆今朝七ツ時よりすみら堀に参れり」といふ。「それは早き行やうなり」といへば、「此所より八里山奥に入ざればすみらなし。浅き山は既に皆ほりつくして食すべき草は壱本も候はず。八里余、極難所の山をわけ入、すみらを掘て此所へ帰れば、都合十六里の山道なり。帰りも夜の四ツならでは帰りつかず。朝七ツも猶おそし。其上近き頃は皆々空腹がちなれば、力もなくて道もあゆみ得ず」といふ。「其すみらいか程か掘り来る」といへば、「家内二日の食にはたらず」といふ。扨も朝の夜より其の夜まで十六里の難所を通ひ、三日三夜煮て、やうやうに咽に下りかぬるものをほり来りて露の命をつなぐ事、あわれといふもさらなり。
 中にも大なる家だにかくのごとし。まして貧民の、しかも老人、小児、又は、後家、やもめなどは、いかゞして命をつなぐ事やらん、とおもひやれば胸ふさがる。」 (板坂耀子,宗政五十緒 校注『新日本古典文学大系 98,西遊記』,岩波書店 より引用,一部の旧字,旧かなを新字,新かなに変更) と実際に食した経験をも記している.すみらはツルボの地方名で,救荒食としては葛の根,かなづちの次の選択であったようだ.