2011年11月30日水曜日

オニナベナ,チーゼル wild teasel, teasel

Dipsacus fullonum
撮影 2001年7月 米国インディアナ州シーモア.農道脇の溝の斜面に発見.実物を見た事がなかったので,友人の Daniel Hodge に車を止めてもらって撮影.

古い本草書に描かれたチーゼル.左より,シェーファー『ラテン本草 Latin Herbarius』(1484),シェーファー『ドイツ本草 German Herbariuus』(1485),フックス『植物誌 De Historia Stripium』(1542),ブルンフェルス『本草写生図譜 Herbarum Vivae Eicones』(1531)

欧州原産の大型の二年草.乾燥させた頭花にはタワシのような穂先にトゲがあり,そのトゲにはマイクロメートル単位の鈎がびっしりついている.この鈎で毛織物の表面をひっかくと,ラシャガキグサの別名が示す様に,肌触りの良い風合いが生まれる.織物の起毛に用いるため古代から重要な作物であったが,現在ではそのような利用法はごく限定的となっている.

文頭の画像下部に見られるように,茎を抱く葉の基部は密着し,ここに雨水がたまるので,茎をはい上るアリなどの昆虫はその水におぼれて死に,空中を飛ぶ昆虫だけに蜜を吸わせて,効率よく受粉をはかるといわれているが,本当なら驚くべき自然の戦略であろう.また,欧州では俗に Venus はこの水でゆあみをしたというし,この水にはまた,そばかすやいぼを取る効があって,それで洗顔すれば Venus のような美人になれるというので,この草を Venus’-basin,Venus’-bath,Venus’-cup などと呼ぶ.

テーゼルの属名(Dipsacus)はギリシア語の dipsakos,ラテン語の dipsacos がもとになっているが,ともにデイオスコリデス,プリニウスで「チーゼル」を表す名称として使用されていた.また,teasel の語原は古代英語の taesan(=to tease cloth)で,この植物は衣料業の象徴ともなり,ロンドンの Cloth-Workers’ Company では紋章に “teasle-head” を用いている(左図,ネットより).



日本では明治時代,毛織物産業のために移入された.明治 18 年(1885) に東京の大日本農会三田育種場から出版された『舶来穀菜要覧』には「チーセル チースル(英) 二年草,山梗菜科 欧州原産にて丈夫なる二年草なり.四月上旬地床に散播きし五月下旬圃地に移し翌年七月中旬頃子鞠を結ふ.其老熟を待ちて採収すべし.其子鞠長体?にして片々鱗次端末鈎刺をなす.絨布の製造に供し其絨毛を惹起するに欠くべからざるものとす.」とある.その後毛織物産業の盛んな地方に広がり,高度成長期にはカシミヤなど高級毛織物の仕上げに珍重されて,大阪・泉州などで頻繁に栽培されていたが,毛織物業の衰退と金属製の起毛機の開発で現在では栽培面積は激減している.


北米では広く帰化して一個体から 2,000 個の種が散布され,プレーリーの原植生を破壊する有害外来植物とされていて駆除対象とされているが,作物としてではなく,種が他の有用植物に混入して移入されたのが始まり.

2011年11月21日月曜日

ヒマワリ (4/4)  キルヒャーのヒマワリ時計 向日性,何故東を向くか? 体内時計の関与

Helianthus annuus
2001年7月
開いたヒマワリの花が太陽とともに回転するという説は,現在では否定されているが,まだヒマワリがめずらしかった十七世紀に,好奇心旺盛なドイツの万能学者アタナシウス・キルヒャー (Athanasius Kircher, 1601 - 1680)はホロスコピオン・ヘリオトロピコン (ヒマワリ時計)を考案した.『磁石あるいは磁気の法』 (Magnes sive de arte magnetica 1641) という著作(下右図)に掲載された銅版画では,水盤のなかにコルクの円盤が浮いており、コルクの中央から一本のヒマワリの茎がまっすぐ伸びている.花の中心には指針がついているので,太陽が動けばコルクといっしょにヒマワリがぐるぐる回転して,指針によって時を指示するという仕掛けである(左図).
彼の場合,光ではなくて,太陽の磁力を受けて,ヒマワリの花が回転すると考えており,したがって,曇天でも時計として機能するというのがみそのようだ.アタナシウス・キルヒャーを記念した博物館にはこの時計の模型も展示されているそうだが,実際に動いているのか否かは確認できなかった.
The sunflower clock, from Kircher, "Magnes, sive De Arte Magnetica" (1643 ed.), p. 644.


ヒマワリの若い蕾は確かに太陽の動きにつれてその方向を変え,日没後夜の間にその方向を東に戻し,日出と共にまたその方向を変える.東の方角は記憶されており,鉢植えのヒマワリの方向を変えると,しばらくの間は夜の間に記憶に基づいた東へと蕾の向きを変える.成熟するにしたがって,東から西への運動の幅は小さくなり (下左図,A R G Lang & J E Begg,瀧本敦『ヒマワリはなぜ東を向くか』中公新書 1993 より引用)開花時には,花の向きは東へと固定される.


この首ふり運動の原動力はオーキシンという名の植物ホルモンで,日の当たらない陰の部分の濃度が高くなるため,茎の東面と西面の成長が交互に促進され,若いヒマワリは東から西へ首を振る.このオーキシンの不均衡化は,このホルモンの日当たり部分から影の部分への移動である(コロドニー・ウェント説)とされ,アイソトープで標識化されたオーキシンの投与により,日の当たる部分で分解するのではなく,日当たりから日陰への移動が原因だという事が,トウモロコシ幼葉鞘の実験で証明された.(日本植物生理学会-みんなの広場).

茎が成長をやめる時期,すなわちオーキシンの作用がなくなる時期には,花の向きが東向に固定されるので,ヒマワリ畑のヒマワリの花は殆ど全てが東を向いてしまう.ではなぜ,他の方向ではなく東へ固定化されるのかについては,わかっていないようだが,多数の花が同方向を向くことによって,受粉昆虫を遠くからひきつける効果が増大するからではないかという説や,「東を向いていると朝日があたり、夜露が早く乾燥するので、病原菌のまんえんを防ぐことができる」という説もある.しかし,東の方向を向くことにそんなに利点があるのなら,なぜ,他の植物でも全部の花が東を向かないのかという疑問も起こる.

ヒマワリは古くから,食用としての種を採るため,また観賞用に育てられて,人との付き合いの長い植物だが,インカやアズテックで神格化されていたのも頷ける謎の多い植物でもある.

ヒマワリの花の首振り運動についての興味深い深い報告が,最近発表された.(2016-08-23)
「体内時計によるヒマワリの日周運動の制御,花の向き,受粉昆虫の訪問」
 米カリフォルニア大(University of California - Davis)の研究チームが,成長途中のヒマワリは,昼は太陽光を受けて東から西へ首を振り,夜は体内時計の働きで元に戻ること,この生体リズムを乱すと,成長が妨げられこと.更に東を向いて開花することは,花の温度を上げることによって訪問する受粉昆虫の数を増やす効果があることを実験的に解明した(201685日付の米科学誌サイエンス(H. S. Atamian, N. M. Creux, E. A. Brown, A. G. Garner, B. K. Blackman, S. L. Harmer. Circadian regulation of sunflower heliotropism, floral orientation, and pollinator visits. Science, 2016; 353 (6299): 587)).
 つぼみの状態のヒマワリの鉢植えを実験室に持ち込み,青色発光ダイオード(LED)の照明を頂上から照らすると,数日間は,東から西へ,そして東へという運動を行うが,やがてその運動は止まってしまう.再度太陽の動きをまねた照明をあてると,首を振る動きが再開される.
照明を16時間点灯・8時間消灯する24時間サイクルから,20時間点灯・10時間消灯の30時間サイクルに変えると,消灯時に西から東へ戻る動きが不安定になった.体内時計が乱れたためと考えられる.遺伝子の発現の検討から,昼は太陽光を受けて茎の東側の成長が速いために次第に西を向き,夜は体内時計の働きで茎の西側の成長が速くなって東向きに戻ることが分かった.
ヒマワリが首を振れないよう固定したり,鉢植えのヒマワリを朝に西,夕方に東を向くように手で回したりすると,成長が妨げられ,全体の重さ (biomass) や葉の面積が1割減った.
 成長し終えて開花期になると,障害物がない開けた場所では,体内時計が,午後や夕方の日光より,早朝の日光に強く反応するようにして,花が東を向いたままになる.
東向きだと花が朝に太陽光を受けて早く温度が上がり,受粉を担うハチなどの虫がよく集まる効果があった.西の方向に向かせておくと集まる昆虫の数は2割に減ったが,赤外線ランプで花の温度を上げると,その数は東向きの花と同等となった.

2011年11月15日火曜日

コスモス Cavanille “Icones et descriptiones plantarum”

Cosmos bipinnatus

英国で最初に咲いたコスモスを描いた 1823 年のカーチスの Botanical Magazine (左図)の記述を読むと,メキシコで採集・送付された種からマドリードの王立植物園でコスモスが初めて咲いたのは 1789 年で,文献の初出は 1791年,Antonio Jos. Cavanille (1745 - 1804) の “Icones et descriptiones plantarum” の第一巻であるとされている.(最下図)

そこで,インターネットで検索したところ,この書籍がバレンシア大学でPDF 化されていて,オンラインで閲覧することができる事がわかった.全6巻の ”Icones et descriptiones plantarum” (Madrid, 1791-1801) にはメキシコ,テキサスやフィリピンなどの新スペイン(ヌエバ・エスパニョーラ)から運ばれた多くの植物についての解説と植物画が掲載されていて,その第一巻の第 14 図にコスモスが,第 79 図にキバナコスモス(C. sulphuruos)のなかなか美しい画像が描かれている(右下図).その記述も見つけることが出来たが,ラテン語かスペイン語で書かれているので読解できなかったが,メキシコ植物園の Vincentius Cervantes (1755 – 1829) , I(J)osephus Longinos 及び I(J)osepho Antonio Alzate がメキシコ市近辺の多くの植物をマドリード植物園に送ってきて,その中にコスモスとキバナコスモスがあったらしい.

コスモスの記述には1789 年と 1790 年の10 – 12 月にマドリード植物園で赤紫色の花が咲いたとある.また文中の◎は,リンネが使っていた植物記号で,一年草を表す.

なお,現産地メキシコでは,ピンクの花のコスモスは標高1600~2800mの涼しい高地に多く,オレンジ色のキバナコスモスはやや高温の1600m以下の低地に自生して,すみわけをしている.
冒頭の画像のピンクのコスモスは,サカタの「イエローキャンパス」の種を播いたはずのポットから生育した苗を植えたところ,成長してこの色の花が咲いたもの.種が混入していたのか,どこからか紛れ込んだのかは分からない.

左図 Cavanilles_Icones_1_ tab 14 (1791)
コスモスの原記載図

2011年11月7日月曜日

ヒナゲシ (2/2) Poppy day,ジョン・マクレー,G20,ベッカム,サッカー・イングランド代表ユニホームにポピー

Papaver rhoeas
先ごろ閉幕したカンヌでのG20 (Group of 20) の集合写真,何人かのメンバーは胸に赤い造花を着けていた.確認できたのは英国及びカナダの首脳だけだったが,これはヒナゲシをモチーフにしたもので,国によって違うが11月11日やそれに近い日曜日の「戦没者記念日」のシンボルである.

古戦場に多く咲く血赤色の poppy が戦死者の流した血から生えるとの俗信は,特に欧州に共通で,Napoleon が一敗地にまみれたベルギー中部 Waterloo では,Wellington 公の戦勝後,畑をいくら耕しても field poppy が群がり生えるといい,この辺りではこれは戦死者の血から生えると言い伝える.

Yet nature everywhere resumed her course;が,自然はどこでもその営みを再開し,
Low pansies to the sun their purple gave,地をはうサンシキスミレは太陽を紫に染め,
And the soft poppy blossom,d on the grave.柔らかなヒナゲシはその墓に花を開いた。
-R.Southey: Pilgrimage to Waterloo,III, 36-8.

しかし,ヒナゲシが戦没者記念日の象徴となったのは,第1次世界大戦の激戦地フランダースの荒野に咲き乱れる poppy を詠んだ,カナダの詩人 John McCrae の有名な詩,‘In Flanders Fields, (1915)’ による.

カナダ・バーモント大学の教授であったジョン・マクレーは軍医としてフランドルの戦地に赴いた.激戦の中で,彼の教え子のアレクシス・ヘルマー中尉がイープルで戦死し,ヘルマーを埋葬したマクレーは,幾重にも並ぶ白い十字架と辺り一面に咲き乱れる赤いヒナゲシ花を見た.ヒナゲシの種は、地中で何年もそのまま発芽せず,地面が掘り返されると芽を出す.戦場となったフランダースの野原は,兵士たちや砲弾によって地中深くまで,荒らされ,掘り返され,それまで眠っていたヒナガシの種が,いっせいに真紅の花を咲かせた.マクレーにとってその光景は兵士たちが戦場で流した血潮のように見えたのであろう.

この詩と共にま真っ赤なヒナゲシは戦没者を悼む花となり,1921年に Royal British Legion (英国在郷軍人会)が,戦没者への募金を集めるために赤いポピーを売ったのが,この運動の始まりとなった.特に英連邦の各国 オーストラリア,バルバドス,バーミューダ,カナダ,南アフリカなどでは Remember Day (Armistice Day) やPoppy Dayという名前で11月11日に戦没者を悼むための休日にしたり,礼拝を行ったりする.

"In Flanders fields the poppies blow
Between the crosses, row on row,
That mark our place; and in the sky
The larks, still bravely singing, fly
Scarce heard amid the guns below.

We are the Dead. Short days ago
We lived, felt dawn, saw sunset glow,
Loved, and were loved, and now we lie
In Flanders Fields.

Take up our quarrel with the foe:
To you from failing hands we throw
The torch; be yours to hold it high.
If ye break faith with us who die
We shall not sleep, though poppies grow
In Flanders Fields.

- John McCrae

英国ケンブリッジに住んでいたとき,11月になると街角では,この記念日のための募金がされ,ヒナゲシの花のシールや造花を募金した印に渡していた.また,植物園近くのラウンドアバウトの中心に立つ戦没兵士の銅像の足元は,ヒナゲシの造花で埋められていた.

ビートルズの初期の名曲,"Penny Lane" の歌詞のなかに,
”Behind the shelter in the middle of a roundabout
The pretty nurses is selling poppies from a tray”
とあり,歌を聞くたびにその光景が思い出される.

冒頭の図はJohn Curtis's British Entomology (England, 1834-1838)
Papaver Rhaeas & Acontia Catena (Brixton Beauty),銅版手彩色

追記 11月11日 NHK の朝のニュースで,ロサンゼルス・ギャラクシー(Los Angeles Galaxy)のデビッド・ベッカム(David Robert Joseph Beckham OBE)が 11/03 に 2 - 1 で New York Red Bulls を破ったゲームでの貢献についてのインタビューを放映していたが,そのとききっちりとしたスーツ姿の彼の右胸にこのヒナゲシの造花がつけられていた.大英帝国から勲位(OBE)を受けた男として,さすがと感心した.

追記2.11月11日の朝日新聞夕刊に,「サッカー・イングランド代表ユニホームにポピー」という見出しで以下の記事が掲載された.サッカーのイングランド協会(FA)は 12 日にロンドンのウェンブリースタジアムで行われるスペインとの親善試合で,Poppy Day にあわせてユニホームの胸にポピーを縫い付けて出場することを予定していた.しかし,「代表ユニホームに政治や宗教,商業宣伝につながるものをつけてはならない」との規定を持つFIFAが認めなかったが,キャメロン英首相や,FA 会長を務めるウィリアム王子が反発したため,選手の腕の喪章の上にポピーを縫い付けることで妥協したとのこと.英国における,第一次世界大戦の戦没者追悼の日の重要性がうかがい知れる.

追記3. 上記親善試合の結果
イングランドは昨夏の南アW杯王者・スペインにホームで1-0勝利。後半4分にMFランパード(チェルシー)がヘディングで押し込み決勝点を奪った。」 FA の HP のビデオを見ると,英国のペレーヤーは腕に巻いた黒い腕章にポピーのマークをつけていた.