2011年7月9日土曜日

ジャガイモ(6/6) 日本への渡来,南京芋,小野蘭山,耋莛小牘,エゾイモ,明治期の本格導入,男爵・メイクイーン

Solanum tuberosum

馬鈴薯のうす紫の花に降る
雨を思へり
都の雨に

石川啄木 初出「スバル」明治43年11月号(1910)

 日本にジャガイモが初めて渡来したのは,慶長六年(1601)だといわれている.オランダ船が,インドネシアのジャカトラ港(現在のジャカルタ)から長崎の平戸に運んできたので,出港地の名前に因んで,最初はジャガタライモと呼ばれていたが,次第に縮まってジャガイモになった.

 慶応大学の故磯野直秀教授は『明治前園芸植物渡来年表』(2007)で,『長崎年暦両面観』(1828刊)に,ジャガイモが南京芋の名前で載っており,天正四年(1576)に長崎への渡来と記録されているが,欧州渡来年(1580年代)を考えると早すぎて疑わしいとしている.また『資料別草木名初見リスト』(2009)では小野蘭山の『甲駿豆相採薬記』(1801)にジャガイモの名が載るのが最初としている.

 ジャガイモを馬鈴薯というが,これは上記の小野蘭山が,文化五年(1808)に著した『耋莛小牘(てつえんしょうとく)』で,ジャガタライモを中国の『松渓縣志』(1700) に記載されている「馬鈴薯」と同じと考えたことによる.『松渓縣志』の「馬鈴薯」はホドイモの類で,ジャガイモではないというのが定説のようだが,現在では中国でもジャガイモを马铃薯(馬鈴薯の簡体)と呼び,他にも地方により土豆,山药蛋,洋芋,洋山芋,薯仔という呼称もある.

一方,江戸時代にロシア人がジャガイモを北海道に伝え,エゾイモの名前で東北地方にも広がったが,江戸時代には,食用としては普及しせず,わずかに飢饉のための救荒植物として栽培されていた.食用としての栽培が本格化するのは,明治初年になってからで,北海道開拓使がアメリカから新しい栽培品種を導入し,これが広まったことが大きい.

明治 18 年(1885) に東京の大日本農会三田育種場から出版された「船来穀菜要覧」という本には「根菜類」の一つとしての「○馬鈴薯」の項に「第一号 チリ ガーネット」から「第三七号 コンプトン プライズ」という 37 種の米国・ドイツ・オーストリアなど世界各地のジャガイモが,それぞれの特徴と共に記載され,「欧米州に於いては馬鈴薯を小麦に亜て最必要の食物となし大にこれを栽培して所要に供せり近歳本邦に舶来の種類其数すこぶる多く上好なる者に至っては其味美なること甘藷に譲らざるものあり」とし,更に土地を選ばないこと,収量も多いこと,年に二回収穫できる種類もあり,また収量も安定していて,甘藷より栽培は簡単で肥料もあまり要らず貯蔵が効くなどの特徴と共に,澱粉を製して焼酎が造れるなど利用法がいろいろあるという記述がある(左図).

 ジャガイモの栽培品種といえば,日本では「男爵」と「メイ・クイーン」が名高い.「男爵」の名は,函館ドック社長であった川田龍吉男爵の名に因む.明治40年(1907)にアメリカから「Irish cobbler (アイルランドの靴屋)」を導入,北海道の七飯の彼の農場で栽培し好成績を収めたことが,このジャガイモを「男爵」の名で広がるきっかけになった.一方の「May Queen(メイ・クイーン)」は,イギリスの伝統行事,五月祭の女王に因んで名付けられたイギリス原産の優良栽培品種で,大正6年(1917)にアメリカから輸入された.

 我が家の庭では,引っ越してきた当時,まだ木がなく,日当たりが良い何年間はジャガイモが良く育った.いまではその当時の子孫(取り残し)が細々と芽を伸ばすが,殆ど花はつけず,根茎も収穫できるほど大きくはならない.(この項 終了)

ジャガイモ(5/6) Burbank, JFK, Marilyn Monroe

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