2017年7月23日日曜日

カタクリ(6)江戸後期 日光山草木之図,武江産物志,本草圖譜,梅園草木花譜,茅窗漫録

Erythronium japonicum

江戸後期になると,盛岡南部の方言「カタクリ」が一般的に使われるようになり,また,その有用性からか,本草家や随筆家に注目されるようになり,広い範囲の地方でその存在が認められ,多くの方言も記録された.一方,漢名としては,いずれも誤用の「車前葉山慈姑」及び「旱藕」が本草家の間では頻用された.
花の美しさにも目が止められたと見え,実写と思われる精緻な画像が残されている.特に葉の斑点は,これまでの図とは異なり,自然である.
挿入資料画像は NDL 公開デジタル画像よりの部分引用.

岩崎灌園 (17861842) は,江戸時代後期の本草家.江戸出身の幕臣.晩年の小野蘭山に師事.多くの地方を旅して,薬草に限らず,植物全般の記録を残した.文政11年,約2000種の植物を収録した本格的彩色植物図鑑「本草図譜」96巻を完成.著作は他に「武江産物志」「草木育種」など多数.

★岩崎灌園『日光山草木之図 第二巻』(1824)  上図①
かたく里

★岩崎灌園『武江産物志(1824) 上図②
「藥草 
堀ノ内大箕谷*邉ノ産
フクワウサウ ヤハヅアキアサミ 石龍膽(つるりんどう) サジクサ
車前葉山慈姑かたくり) 八幡山中 ナガサキ村ニモ 叡山ハグマ 赤山ニモ」
*堀ノ内大箕谷:多摩郡堀ノ内村,現 東京都杉並区堀ノ内か

★岩崎灌園『本草圖譜 第七巻』(1828 自序) 上図③
山慈姑

一種 かたく里 南部
武州大箕谷野州日光山にあり 南部尤(もつとも)名産也正月一葉を生す その二葉出るものは花あり 六辧淡紫色百合花に似て細し 日光産は花深紫色 根白色指頭(ゆびのさき)の如く煮て菜となし乾て粉となす 藏器の説に葉似二車前一といふこれなり」
描かれた開花時のカタクリの左の株は『日光山草木之図巻』とほぼ同じ.

毛利梅園 『梅園草木花譜』 春乃部 第三巻 
度々本ブログで引用している,江戸後期の博物家で,画が巧みで,大半が実写である図譜を多く描いている
★毛利梅園(1798 1851)『梅園草木花譜』(1825 序,図 1820 1849)『春乃部 第三巻』には,西暦182647日に武州大箕の八幡宮を望む山林で採取した5莖のカタクリの花を翌日写生した美しくも正確な図とともに
「地錦抄ニハ
カタコ 初百合草
              フンダイ百合

多識編 山草類
王孫 和土知恵名波利 異名 牡蒙(ボウモウ)弘景 黄孫 別録
黄昬(コン)同 旱藕(カンクウ) 長孫 海孫 白功(コウ)草
蔓延 王孫
予曰 牡蒙ハ与紫參同名也
黄昬ハ与合歡木同名

一莖一花二葉也
丙戌年*姑洗**初一日***
大箕八幡宮****望山林
折留四莖翌二日眞
*丙戌:文政9年,1826年.**姑洗:陰暦3月の異称.***初一日:西暦182647
****灌園『武江産物志』にある「堀ノ内大箕谷,八幡山中」か.

大和本草ニハ 雑艸 類ニ載

寿*
本草綱目ルハ王孫其葉生
顛項紫河車又似リト及已
別物和漢三才圖會
王孫形又異王孫王(クチ)
孫(アサイ) 一名两種王孫一種別種
本綱
*寿:毛利梅園の名,元寿,つまり本人と思われる.」

武江産物志に曰
車前葉山慈姑かたくり

異名分類聚に曰
王孫 かたかこの花
              和名つちはり又云すはり草
本草の王孫 釋名 旱藕也云々

予考 つちはりは四月に有れ花者香子とは別物也王孫は俗に立葵と云者也ヱレン草とも云
和俗には かたくり かたこ 初百合 ぶんだいゆり ごんべいろう
                              此は土地に依て謂る歟〇旭山子文會禄に旱藕かたこ〇かたくり〇鼡百合
                              此者一花二葉花は山丹に●(イ+巨)て鼡の毛色と一般故に鼡百合と云其余名義
未詳根は藕に●(イ+巨)て細小く五六歳の小兒の指の如し長さ寸余り云々

大和本草に曰
カタクリ 本草紫參の條に曰旱藕なるよし謂り
萬葉集第十九 攀二-折堅香子(かたかこ)草の花一を哥云々古抄には猪舌とも言

春紫色の花さく今按に香多加子なる歟新撰にも堅香子の哥あり

予曰 萬葉集古今抄新撰六帖和歌六帖●も
              武士乃八十妹乃加汲萬香無(もののぶのやそのいもじがくみまごふ)
               寺井乃上乃堅香子乃波奈(てらいのうえのかたかこのはな)

又萬葉集の堅香子の花は似二る躑躅一に草也とは心得ぬ説なり〇小車乃師輪仁掛
堅香々乃何強人心哉(をぐるまのもろわにかくるかたかかのいつれもつよきひとこころかな) 堅子(かたこ)を堅香(かたか)と讀たる歟」とある.

茅原定『茅窗漫録上巻』 挿図は左下
★茅原定(茅窓,1774-1840))『茅窗漫録(ぼうそうまんろく)上巻』(1833)
「○カタクリ
旱藕
病人飲食進みがたく、至て危篤(キトク)の症になると、カタクリといふ
葛粉(クヅ)のごとくなる物を、湯にたてゝ飲(ノマ)志む。近歳一統の風俗と
なれり。最初何者のいひ出せし事にや。是は本草綱目山草類王孫
の釈名に出たる旱藕(カムグウ)といふ草の根(ネ)を製したるものにて、東國、
北國より多く出し、奥州南部、加州山中及越前より出す物、最上品
なり。唐書方技傳に、開元末、姜撫言、終南山旱藕(カムグウ).餌
葛粉。帝作シテ湯餅大臣。右驍衛将軍甘守誠能薬石。曰、旱藕(カムグウ)
牡蒙也(ナリ)。方家久シク用。撫易ニスル爾(ノミ)とあり。餌といひ、陳蔵
器の説に、長生不毛髪といふにより、かゝる風俗となりしと見ゆ。
此草昔は堅香子(カタカゴ)といふ。一名猪(ヰ)の舌(シタ)ともいふ。萬葉集第十九天平感宝
元年五月十二日*
越中国主館大伴宿禰家持(トモノスク子ヤカモチ)作。攀堅香子(カタカゴ)艸(クサノ)花一首
(モノヽフノヤソノイモラガクミマガフテラヰノウへノカタカゴノハナ)
物部能八十乃●嬬等之挹亂寺井之於乃堅香子之花 ( ●=女ヘンに感)
萬葉目安*に、堅香子花(カタカゴハナ)は、つゝじに似たる草なりとて、
小車の諸輪(モロワ)にかくるかたかゞのいづれもつよき人心
かな コガ通音

*天平感宝元年五月十二日:萬葉集原文では「天平勝寶二年三月二日」)

新撰六帖にハ堅香子(カタカゴ)を讀誤りて、樫(カシ)とこゝろへ、木部に入れて、
萬葉下句を寺井のうへの堅(カタ)かしの花と出せり。此草の形、葉ハ
和大黄の初生、またハ車前葉(オホバコ)のごとく、一根にたゞ二葉生じて
相對す。其葉に淡紫色の斑点(ハムテム)あり。山生は四月頃(コロ)葉間に
莖立て、莖頭に六辧の紫花を開く。長五寸許、径一寸五分許
唯一莖一花のみ俯(フ)してひらく。百合花のごとし。辧の末
ハ上に翻(ヒルガヘ)る。希にハ白花もあり。根ハ葱白又ハ水仙のごとし。
北國能登邉にてハ、此根を採煮熟して食に供す。所在
寒國に多く生ずる物なれど、今ハ諸國往々にあり。京都近邉
は、叡山、雲母坂(キラヽザカ)、篠原(サヽハラ)の中に多く生ず。嫩(ワカ)葉を摘(ツミ)て漬物と
なし、菜に充(アツ)。又播州神出山(カムデヤマ)、雄子尾(ヲコヲ)、雌子尾(メコヲ)の山中に多くある
事、播州名所図會に載たり。此の根を採(トリ)て葛(クヅ)を製するごとくにし、餅(モチ)
とするを堅子餅(カタコモチ)といふ。越前にて多く製す。南都にての製、東府へ
献上せらる。又大和宇陀(ウダ)葛屋藤助よりも、おなじく献上す。草、
諸國方言多し。京師にてカタユリとも、初(ハツ)ユリともいふ。東府にて
カゞユリとも、フムタイユリともいふ。佐渡にてカタハナといふ。延年長生
の語より事起りて、危篤の病人、一統に服餌(フクジ)する風俗となり
遂には進献供用の物となるも奇ならずや。

茅窗漫録上巻終」

2017年7月19日水曜日

カタクリ(5) 南部藩,江戸幕府への獻上(仮)

Erythronium japonicum 

江戸時代中期の旅行家・随筆家の★百井塘雨(生年不明 - 1794)の紀行『笈埃随筆 巻之十二 雑説八十ケ条』に,「〔四十八〕奥州南部のカタクリは公儀へ献上なり。」とあり,また,江戸後期の本草家★小野蘭山『本草綱目啓蒙』(1803)の「巻之九 草之二 山草類下」の「山慈姑 アマナ」の項に「車前葉山慈姑 奥州南部及和州宇陀ヨリ此粉ヲ貢献ス。カタクリト云。」とあるように,江戸時代,かたくり粉は南部藩の名産品として,将軍に献上されていた.各藩からは多くの特産品が獻上されされていたが,かたくり粉を献上していたのは,唯一南部藩だけだった.

江戸時代には岩手南部藩で産するカタクリ粉は南部片栗とよばれ,はやくより名を得ていた.「邦内貢賦記」によれば南部産かたくり粉が天和三(1683)年,江戸幕府の第五代将軍徳川綱吉に已に貢納されていたとされる.以後幕末まで,「時献上*として中元時期にカタクリから製造された「かたくり粉」が将軍に献上されていた.「大成武鑑」時献上の記録を見ると,通計二百六十六家の中で,かたくり粉を献上しているのは盛岡南部藩のみである.毎年 10 kg以上のかたくり粉の時献上が 1683年から 1862 年までの 180 年間続いたとすると,その總重量は 1,800 kg 以上となる.

*江戸時代に諸大名から将軍家への献上物は,年始八朔の御太刀金銀馬代,端午重陽歳暮の御時服献上と云った定式のものや,参勤交代で将軍に謁見を賜った時の献上物の他に,時献上(ときけんじょう)と称して,四季それぞれに諸侯から自領の特産物などを献上する事が定められていた.

藩からではないが,大和・大宇陀の『森野旧薬園』から,17361782年までの46年間で約0.211 kg のかたくり粉を幕府に献上したことが記録に残る1

元文元年(1736)四月には,幕府の医家・本草学者 丹羽正伯 (1691 – 1756) が,南部藩の江戸留守居 吉田半三郎 にかたくり粉の製法を尋ね,花巻郡の川口町在住の久右衛門,同町検断* 治右衛門から詳しい製法が報告されていたことが傳えられている.*検断:大庄屋.
この情報は正伯が編纂した★『諸国産物帖』(1735-40) の「カタクリ」の名の文献上の初出に生かされたのかもしれない(未確認).

【武鑑】NDL公開デジタルライブラリーより 
     「大成武鑑」              「文化武鑑」          「安永武鑑」

1780年刊の『安永武鑑.』には,南部藩の部の【時献上】の項に「暑中 かたくり粉」が,「在着御礼 蝋燭二種一荷 三四月 御馬 七月以後 初鮭 八月以後 初鶴初菱喰白鳥 十月 御茶鯛隔年 在府年?冬中ニ 鮭披薯蕷初鱈若黄鷹 寒中 雉子」と共に記載されている.片栗粉を【時献上】として献上する伝統は幕末まで続いていた(1810 文化武鑑,1867 大成武鑑).
NDLでデジタル公開されている『安永武鑑.』以前の武鑑(享保武鑑:享保三年 1718,宝暦武鑑:宝暦元年1751)を見たが,「獻上」はあっても「時獻上」の項は全ての大名家になく,また南部家の部に「かたくり」の記事はない.

1780 安永武鑑 安永九年 出雲寺和泉椽
              将軍:第十代 徳川家治,               南部藩主:南部修理大夫 利正(第九代)
1810 文化武鑑 文化七年 千鐘房須原屋茂兵衛
              将軍:第十一代代 徳川家斉,        南部藩主:南部大膳大夫 利敬(第十代)
1867 大成武鑑 慶應三年 出雲寺万次郎
              将軍:第十五代 徳川慶喜,            南部藩主:南部美濃守 利剛(第十四代)

参考文献2-3によると,献上されるかたくり粉は,南部藩花巻城代及び宮古代官所の支配地で一人ずつ任命されていた,それぞれ「かたくり師」及び「御献上かたくり製法方」の責任で製造されていた(江戸後期では).カタクリは領内全域に自生していて,天和二年当時までは各地方(通という)より物納されていたが,後には(元文三年以前),上記二地方以外の通では,銭をもって替えさせた.(物納:高百石に付,八夕(勺の読み間違えか).錢納:百石に付,銭壱貫九百五拾文)
特に花巻代官所の「かたくり師」には,名字帯刀が許され,代々受け継がれるほどの地位であった.

【製法】
元文元年(1736)四月十三日には,幕府の医師丹羽正伯は南部藩江戸の留守居吉田半三郎を呼出し,かたくり(粉)の製法を尋ねた. 四月二十一日に吉田半三郎が以下のように回答している.
    カタクリの製法は? 二月末から三月の内に,花をつけた株を掘り取る
    畑で作るのか?それとも野生のを掘ってきて植えておくのか? 山野に生えていて,畑では栽培しない.また掘ってきて植え貯えて置いてはうまくできない.
    南部領内,方々に産するのか?それとも所を限るのか? 所々ではできず,花巻と云う場所に限る.
    ほかの地方へ販売しているのか? 他の地方に売るほどの量は採れず,領内でも払底している.

さらに,二十七日には,御目付から花巻御郡代へ,より詳細な回答をするようにとの通知があり,花巻郡の川口町(旧岩手県稗貫郡花巻川口町)在住の久右衛門*,同町検断**治右衛門から詳しい製法が報告されていた.
*久右衛門:かたくり士,のちに(1826)子孫が苗字帯刀を許され,かたくり師 岡田久左衛門となった.**検断:大庄屋

    カタクリの根を掘り取ってよく洗い,桶に入れて七日間毎日水を換えてさらし,臼に入れて搗き,その後引き臼で挽いて(水に分散し),まず笊を通し,水(すい)の布*,次いで木綿袋,最後に絹袋を通す.用いる水は吟味する.
    干すときには棚を作り茣蓙を敷いて,その上に上質の紙を敷いて,その上にカタクリを置いて水分を飛ばす.その後に砕いて,上に紙をかけて陰干しし,念を入れてごみが入らぬようにする.
    製造時期は二月末から四月中である.
    山野に自生していて,畑では作らない.
    花が散ってから根を掘り取る.花があるうちに採ると粉がうまくとれない.葉のあるうちに採って植え貯めておくことはない.
    南部領内,どの地方にあるかはよく知らない.私は今まで二つの郡で掘っていたが,最近払底してきたので,今年から郡山方で採取している.
*水の布:不明

【献上】
献上用に精製されたかたくり粉は,一升から一升五合を一袋に入れ,十袋を箱に入れ(計10-15升),五月下旬から六月上旬に13日ほどかけて江戸に送られた.幕府には,箱台にのせ,目録と共に,土用に入って五日目或は七日目或は十日目までに獻上された.

かたくり粉の嵩比重を 0.55 とすると,一袋が 1.0 - 1.5 kg, 十袋で 10 - 15 kg が献上された.澱粉の収率が 16.7 %,一つの鱗茎の重量は平均 3.5 g との報告1) があるので,それに基づいて計算すると,将軍への獻上分だけでも,毎年 60 kg,即ち20,000個近くの鱗茎が必要とされた.しかも,将軍だけではなく大納言(世子)や重臣にも量の多寡はあっても贈られたので,その原料は膨大なものになったであろう.
将軍への献上には作法があったので,これを題材にした小説「南部かたくり粉騷動」が後に書かれた.(白柳秀湖『親分子分. 英雄編』1929

【南部藩での産地】
初期は各地で産した粉を物納させていた(高百石に付八夕(勺の読み間違えか?))が,払底してか,やがて主に花巻城代下で製されるようになり(後に宮古も),他の地方(通)からは,百石につき銭壱貫九百五拾文の金役で代用させるようになった.

幕府への時献上は、文久二(1862)年閏八月二十二日に,いわゆる「文久の改革」の一環として,海外からの脅威に対抗するため,各藩の無駄な出費の削減策の一環として,
文久二戌年閏八月廿二日 に,参勤交代の簡略化などと共に

「一 年始、八朔御太刀、馬代、参覲、家督其外御礼事ニ付而ハ、献上物者、是迄之通たルべく候、乍去手数相懸候品ハ、品替相願不苦候事、
一 右之外献上物ハ、都而 御免被成候、尤、格別ニ御由緒有之、献上仕来債候分ハ、相伺候様可被致候事4

と令され,「かたくり粉」の獻上もこれによって廃止されたと考えられる.

その後もかたくり粉は岩手県の特産品として製造され,甲斐織衛『物産要略. 巻之1』(明治13 (1880)年),小泉栄次郎『工業薬全書』編 (明治35 (1902)年)にも,「山慈姑」及び「車前葉山慈姑粉」には岩手県が産地として記録されている.現在ではカタクリ由来のかたくり粉は殆ど製造されず,ジャガイモ澱粉から製造される「片栗粉」で代用されている.

1) 髙橋京子『大和・大宇陀『森野旧薬園』の生薬資源:環境社会学的意義』生物工学92(7) (2014)
2) 近世こもんじょ館 http://www.komonjokan.net/profile/
3) 工藤利悦『〈古文書を旅する〉152』盛岡タイムズ (2007 2 2)  http://www.morioka-times.com/news/2007/0702/02/07020203.html
4) 石井良助 服藤弘司編『幕末御触書集成第三巻』岩波書店(1993)