2017年6月25日日曜日

カタクリ (2) -假 江戸初期文献 大和本草,広益地錦抄,東莠南畝讖,画本野山草,採薬使記

Erythronium japonicum
2000年5月 筑波山

江戸時代の初期はカタクリは「カタコ」,「かたこ草」,「かたこゆり」,漢字名では,「唐嶋百合草」「山慈姑」「旱藕」「初百合」とも呼ばれていた.確認できた「カタクリ」の最初の例は,1731年序の★毘留舎那谷『東莠南畝讖』にカタクリの写生図に「片繰 カタクリ」とある.故磯野慶大教授の初見は★『諸国産物帖』(1735-40) とあるが,確認できなかった.

貝原益軒『大和本草巻之九 草之五 雜草類』(1709)には,なんともつかない植物の図に
「[和品]
カタコ 高二尺許莖紫色葉面ニ有黒點花カサクルマノ
如シ紫色ナリ比睿山ニアリ正月ノ末開花尤美ナリ根ノ形
芋ノ如ク又蓮根ノ如シ若水云本草紫參下ニ出タル旱
藕ナルヘシ其粉如味甘シ食スヘシ人ノ補益スト云〇
萬葉十九攀折堅香子(カタカゴ)草花哥云云古抄云香子ハ
猪舌トモ云春紫色ノ花サク今按是
カタコナルカ新選六帖ニモカ
タカコノ歌アリ」とある.花の色,葉の描写及び根(鱗茎)の利用法はカタクリに適合するが,高さ(60 cm)や根の形状はこれに合わない.

この益軒(篤信)の記述に対して,江戸後期の国学者★屋代弘賢(1758-1841)は類書『古今要覧稿』(幕命により 1821編纂開始,1842までに560巻を調進)の「第四百四 ●草木部 かたこ」で,「按に凡かたしは其莖高きものといへ共僅に六七寸に過ざるものなるに今二尺許といへるはおそらくは傳聞の誤りなるべし陸奥南部のものといへ共さはおい出ざるよしなればいかで比叡山あたりのものヽしか生出る事やはあるまた其花風車の如く根蓮根の如しといふもかなはず按に本草啓蒙に古説に此草を旱藕とするは穏ならずといへりこれはいとよき考なれども大和本草かたこの上に和品としるせしによれば其實は篤信も若水の説をよろしとせしにはあらざるべし」と,益軒は伝聞で書いたのだろうとしている.益軒は京都に在住していたので比叡山のカタクリを見ることは出来たのであろうが.

江戸の植木屋の一族として名高い★伊藤伊兵衛の『広益地錦抄』(1719)には
カタコ 宿根より初春正月に葉出る車前の葉
のかたちにて莖むらさき色表に黒くまだらの
紋(モン)あり葉二枚出て中より花出る六出にして紫
いろ花ひらそりかへりてゆりの花形なるゆへ
初百合(ハツユリ)草とよぶ五六寸ほどの小草之正月すへ
二月花開く珍らしく鉢にうへて愛すべし」とある.
実際に育てていたのであろう.葉や花の記述は正確で,鉢植えとして鑑賞していたことが分かる.図も簡略ながらよく特徴を捉えている.

西美濃養老の真泉寺住職玄香(?-1749)と推定される★毘留舎那谷の『東莠南畝讖』は,自序は1731年(享保16)であるが、本文中の年記は1723年(享保8)から1748(寛延元年)に及ぶ.植物377品・動物90品を写生していて,大半は特徴がよく描かれ,暖かみのある良い図が多い.散策あるいは近辺の寺院への往還での写生で,当時の植物相を知る好材料であろう.朱筆は後年に小野蘭山が書き入れたもので,図のうち433点が,後年飯沼慾斎画『本草図譜』に転写されている.(故磯野教授による)
「唐嶋百合草 三月土曜入 二三月咲始
自櫻至海棠ナル時或
斤(片?)繰カタクリ)或山慈菰
車前葉山慈姑カタクリ」朱筆は小野蘭山が品名を考定あるいは訂正した書き入れ(自筆).
と漢字表記は「斤(片?)繰」と片栗とは異なるものヽ「カタクリ」と,当時から西日本でも呼びならわされていたことが分かる.

★橘保国『画本野山草』(1755)には,上を向いた花と,葉脈がはっきりとしたギボウシのような葉の稍違和感のあるカタクリの絵に
かたこ百合(ゆり)
芲エンジノグ
同クマ
ニホイ青」と色の指定がされ,更に
かたこ草 かたこゆり 旱藕(かんぐう)
葉さゝ葉に似て花のかたちゆりのごとく色うす紅なり
万葉集(まんえふ志ふ)のかたくりこれなりもちあつかふこと久し
藝花家(げいくハけ)にて初ゆりといふ二月はなあり」
との記述がある.橘保国は実際には花も葉も見ていなかったのであろう.

★阿部照任 (生年不詳 – 1753) らの『採薬使記』(1758序,写本.森立之の旧蔵,白井文庫本)の「巻之上」には
「○重康*曰奥州南部ニカタクリト云フ草
アリ其形チ百合ニ似タリ花モユリニ似
テ紫色正二月此花咲ク其根ヲトリ葛ノ
如ク水飛シテ水ニテ子リ餅トナシ食フ
葛ヨリハ色白ク甚タミコトナル物トナ
リ土人専ラ久痢ニ用ヒテ益アリト云フ
ナリ
光生**按スルニカタクリ江東処々ニ生
ス一名初ユリ一名姥(ウバ)ユリ一名ブンダ
イユリトモ云フ正月頃花咲ク故ニ初
ユリト称ス花萎(シホ)レテ後ニ葉ヲ生ス
ノトキ花ナキユ故ニ姥ユリトモイフ
ノ形チ車前草ノ葉ニ似タリ葉ノ面ニ
黒キ斑アリ是レ萬葉集及ヒ新撰六帖
ニ詠スル所ノ堅香子(カタコ)ト云フモノナリ
或曰本艸紫參***ノ下ニ載スル旱藕****ナルヘシ

堅栗」とある.

やはり北国に多く見られ,鱗茎が食用とされる事もあった「ウバユリ」の記述が混入しているが,挿図では葉と花が描かれている.『画本野山草』と比べると,花はほぼ同じで「花モユリニ似テ」と上を向いて,かつ花被片が反り返っていないのが気になるが,葉には斑点があり,『画本野山草』より正確といってよいだろう.

「本書は厳密な意味での照任の著述ではない。照任と重康が、幕命を受けて、採薬使として全国各地をめぐり、発見した動植物について口述したことを、高大醇が筆録し,一七五八年に後藤光寧が編纂したものである。三十五国、百七品にわたり、陸奥国のものが四十種で最も多い。」(NDL, 『採薬使記』書誌情報より)
*松井重康,**後藤光寧
***本艸紫參:『本草綱目』では「紫參」の項にもあるが,「草之一 山草類」の「王孫」の項に
(《本經》中品)【校正】並入《拾遺》旱藕」とあり,旱藕=牡蒙=王孫 とされている.「王孫」はツクバネソウ(Paris tetraphylla A. Gray)に考定されている.
***旱藕:本体不明,現代中国では食用カンナ(芭蕉芋,Canna edulis Ker Gawl.)をこう呼ぶ.

2017年6月21日水曜日

カタクリ (1) 万葉集,古今和歌六帖,新撰和歌六帖,萬葉集註釈,萬葉考,牧野新日本植物図鑑,植物の名前の話,和泉晃一「草木名のはなし」,古今要覧稿

Erythronium japonicum
2009年4月 弘前城植物園
カタクリの花に関する現存最古の文献は,『萬葉集巻之十九』に収められた大伴家持の歌である事に,衆目はほぼ一致している.この歌は天平勝宝二年の春三月二日、家持が越中守として国府(現・高岡市伏木あたり)で詠んだもので,

「攀折堅香子草花歌一首(堅香子の草花を攀じ折る歌一首)
物部能八十乃●嬬等之挹亂寺井之於乃堅香子之花 ( ●=女ヘンに感)」
もののふの やそのをとめらが くみまがふ てらゐのうへの かたかごのはな
(現代語訳:「モノノフノ(枕詞)八十の処女達が汲みさわぐ寺の井のほとりの、かたかごの花かな。」土屋文明『万葉集私註』(1949-1956)筑摩書房)
左図:「活字萬葉集」(慶長年間刊,1596-1615)『万葉集』最古の刊本で,伏見版(円光寺版)の木活字を使用し,不足の文字を新雕し印行したものとされる.万葉仮名の本文のみで,無訓本と通称されるもの.

平安時代から鎌倉初期には,この「堅香之花」を「かたかの花」即ち「堅樫の花」と解釈していたらしく,『古今和歌六帖』(976-987 or -938)では,この歌が「第六 草」ではなく「第六 木」に,『新撰和歌六帖(新撰六帖題和歌)』(1243)でも,「かたかし」を詠った家良,為家,知家,行家,光俊の歌五首が「第六 草」ではなく「第六 木」に収められている.

古今六帖              第六 木
 武士の八十をとめらかふみとよむ
              寺井の上の堅かしの花                      大伴宿禰家持

新撰六帖              第六 木
妹かくむ寺井の上の堅かしの                                        衣笠内大臣家良公
              花咲ほとに春そなりぬる
誰か見む身をおく山に年ふとも                      前藤大納言爲家
              世に逢ことの堅かしの花
小車のもろ輪にかヽかる堅かしの                   九条三位入道知家
              いつれも強き人こヽろかな
かつはまた岩にたとふる堅かしも                   左京太夫行家
              つれなき人の心にそしる
人こヽろなへておもへは堅かしの                   右大辧入道光俊
              花はひらくる時もありけり

しかし鎌倉時代初期における天台宗の学問僧仙覺1203? – 1272 以降)が『萬葉集註釈(1269) において,「此歌の落句,古點にはかたかしのはなと點ぜり,是をかたかこの花と點ずべし,かしと點ずれば,樫の木にまがひぬべし,端作の詞に,堅香子草花とかけり,草と聞えたり,かたかこをば,又はゐのしりといふ,春花さく草也,その花の色はむらさきなり」
と,「子」を「シ」ではなく「コ」と読むべきであり,さらに草花とされている事から「堅香子=かたかこ(ゐのしり)=カタクリ」と考定して,以降定説となった.

右図:仙覺『萬葉集註釋』(写本,江戸時代, NDL

江戸時代中期の国学者,歌人賀茂真淵 (1697-1769) の ★『萬葉考』(賀茂真淵全集.1903-1906,吉川弘文館)「第三 巻之十九考」には,  
「〇攀二折堅香子草花一(カタカゴノハナヲタオレル)歌,  今云かたくりなるべし此花はすみれ草の花に似てもヽ色なるが見るかひ有花なればとりてめづべし越の國にてはかたかごといふ【越の國にて加多加呉といふよしいへば北國の方言ならん】近江安房のやまには多しといへり武蔵の王子てふ里にも有といへり叉陸奥南部にてもかたくりといへり下野二荒山にも有さてかたくりの久は古由の約にて加多古由利にて堅小百合なり加多加古といふ加多は堅にて加は古に通ひ下の古は久に通ふ其久は古由の約にて同言方言なり.

物部能, 冠辭

八十乃●嬬等之(ヲトメラガ)( ●=女ヘンに感),挹亂(ツミミダル) 今本に是を久美萬我布とよめるは未し挹は都美とよむべし字書には酌なりともあれども叉取也ともあれば都美と訓べし井によるは中々古意ならずと有は真淵考にていとよし諸成案るに亂を刀與牟と讀しはいかヾ義訓なれば物によりて亂は刀與牟とはよむべき義ながらこヽは多くのをとめをいふにて艶なるさまなれば刀與牟はいかヾあらん刀與牟は刀は都與の約にてやがて強呼する事なれば郭公などの高く鳴をとよむといふなりをとめは高い聲はせじなればこヽはみだれつむを上下していふ言として都美未太留と訓むべし.

寺井之於乃(ウヘノ)堅香子之花 」とある.

従って賀茂真淵の考えによればこの歌は,「もののふの やそのをとめらが つみみだる てらゐのうへの かたかごのはな」と読むべきであって,「多くの乙女たちが,てらゐの井戸の近くで,さんざめきながら美しいカタクリの花を摘んでいる」という情景を詠った歌となる.花も葉も山菜として利用されていたのであろう.

私は,こちらの解釈の方が華やかで,春を詠う歌として納得できる.

なお,『萬葉考』は全九冊.1768~1835年刊.真淵は総論で万葉集の文学批評的研究を行い,自らが万葉集の原型と考える巻と巻序で,巻一・二・一三・一一・一二・一四の六巻に注釈を施した.新見・創見に富み,万葉集の研究史上最も重要な書であるが,いたずらに本文を改めた部分もある.残り一四巻は,のちに門人狛諸成(こまもろなり,1722~1802)が真淵の草稿本を基に完成.引用した十九巻は狛諸成の手になる巻.

一方,近代になって,この「カタカゴ」を「コバイモ」に考定する説が著名な植物学者によって唱えられた.
牧野富太郎1862 - 1957)は『牧野新日本植物図鑑』(1989,北隆館)の「かたくり(かたこ)〔ゆり科〕」の項で「(略)
〔日本名〕古名をカタカゴ、それからカタコの名も出た、これは傾いた籠状の花という意味であろうし、またカタクリは片栗でクリの子葉の一片に似ているという意味であろうが、本種にはぴったりせず、むしろコバイモがこれらの性質をよく示すからカタカゴの名はそれからこれへうつったものではないかという説がある。」と記す.

水谷豊文(1779-1833)  本草綱目紀聞
NDL
更に,元東大教授前川文夫1908-84)も『植物の名前の話(1994,八坂書房)の「10. カタカゴの正体」で,
「コバイモは、東北地方西南部から北陸・北国・東海・近畿地方をへて四国の山間部にわたって分布する、ユリ科の多年生草本。現在、その産地はまれであるが、時に人家近くに逸脱したり、庭に栽培されたりする。
早春期植物の一で、葉は披針形―広線形、花茎10-20cm。その先に1個、風鈴状の花をうつむき加減に垂れる。そのさまが文字通り『傾いた籠』に見えるところから、本草はカタカゴ(傾籠)の名をえた。
また、地下の比較的に浅いところ、ふつう2-3cmの深さに、直径11.5cmほどの円い玉がある。これが鱗茎で、ユリの百合根やカタクリの細長い根の部分(鱗茎)に当たるものである。この円い玉は、実は2個の半円球の鱗片からできていて、強く押せば2片に分かれる。その分かれた1片がクリの形に似ているので、『片栗』の名が起こった。

このようにコバイモは、地上部の花に着目してカタカゴと名付けられ、また地下部の鱗茎に着目してカタクリと名付けられたが、これらの名前は食糧植物としての必要性からつけられたものであった。言い換えれば、食糧となる地下部のカタクリを手に入れるため、目印としたのが地上のカタカゴの花だったのである。

元のカタクリ(コバイモ)は、鱗茎が丸く大きく、しかも地下浅くあるので、食糧植物としては格好のものであった。それで、元のカタクリは大量に乱獲され数を減らした。その結果、食料資源としての意義を失い、その名は世間から忘れられていった。
一方、これに並行して本州の中部以北では、今のカタクリが新しく食糧に用いられようになり、やがて、これがカタクリの名を専用するに至った.

なお、大伴家持の歌にでてくるカタカゴは元のカタクリ(コバイモ)である。家持は恐らく大和でアワノコバイモを知っており、任地の越中国府で類似のコシノコバイモに出会って、その感興を万194143の歌にしたという。」と記した(確認中).

これに対して,和泉晃一さんは,「草木名のはなし」」(1)(http://www.ctb.ne.jp/~imeirou/)の「カタクリ」の項で,江戸後期の百科事典である屋代弘賢『古今要覧稿(1842) に「此この草くさはじめて生出て一とせ二とせのうちすべて片葉にて、状おおはこの葉に似てしろみを帯なかにわきて白き筋及び紫のまだらある故に、片葉鹿の子といひしなり。」とあることを引いて,若い葉は一枚で,花を着けるようになると二枚になる事と,斑の模様があることから「(カタクリは)カタコユリの約。幼草期のカタクリは、まだら模様(鹿の子模様)をつけた葉を1枚(片葉)だけ出し、経年成長を繰り返すので、「片葉鹿の子」と呼ばれた。このカタハカノコがカタカゴ(カタクリの古名)・カタコ(カタクリの別名)をへて、カタコユリ・カタクリとなったもの。」と語源を説明し,方言の分布も参考に,萬葉集の歌の「堅香子」はカタクリだと考定していて,説得力に富む.

2017年6月18日日曜日

アマナ (9/9)-假  江戸時代文献 追補 千金方薬註,本草綱目啓蒙図譜,本草綱目紀聞,江戸時代の方言

Amana edulis
2010年4月 茨城県南部
アマナの記述のある江戸時代の文献が幾つか見つかったので追補する.

松典子勅(松岡恕庵)『千金方薬註. 巻之三 草部下』(1778)の「山慈姑」の項には,
山慈姑 車前葉韭葉ノ二種アリ車前葉山慈姑ハ[和名]カタコ越前
大和陸奥 (中略) 

韭葉ノ者ハ[和名]アマナ山城
醍醐 一名ムギグワイ安藝 一名鴉ノムギ山城講堂村 トキクハイ
一名アマイモ山城鳥羽 一名アマツホセ 一名秋海棠秋牡丹ト同 上加
茂社前ノ芝原妙心寺邉其外處々ニ生ズ葉韭ノ如ク長サ三四寸
三月白花ヲ開ク四月苗枯ル又近江北-郡ノ人沙參*ヲアマナト呼フ」
と,山慈姑に二種あって,「カタクリ」は「車前葉山慈姑」,「アマナ」は「韭葉山慈姑」であるとして,混乱を避けるべく別の名で呼んでいる.「鴉ノムギ」の名称を見ると,「ムギグワイ」の「ムギ」は,麦畑に生えるからではなく,葉がムギの若い苗に似ているからかとも,思われる.
この書では,生育している場所を具体的に記すとともに,全国の地方名(方言)を多く記録していて,小野蘭山の『本草綱目啓蒙』にもない方言,この項では「アマツホセ,トキクハイ,ムギグワイ,秋海棠,鴉ノムギ」が収載されている.
*沙參:ツリガネニンジン Adenophora triphylla var. japonica

松岡恕庵(1668-1746)は,江戸中期の本草・博物学者.京都の生まれ.名は玄達,字は成章,恕庵は号,別号は怡顔斎.初め山崎闇斎に入門し,のち伊藤仁斎,東涯父子に師事して儒学を修めた.また稲生若水に本草学を学んだ.恕庵の博物学上の功績は,中国の動植物およびわが国産の動植物,鉱物などの品種の研究を特に学問的に取り上げた点にある.小野蘭山など多くの門下生を育成した.著書は多く,中でも薬物に関する学識を明示した『用薬須知前編』,食物本草書『食療正要』は重要.<参考文献>上野益三『日本博物学史』

Blog-5 に記した小野蘭山の『本草綱目啓蒙』の初版は出版の直後,文化三年(1806)三月の江戸大火で版木が焼失した.蘭山の孫で後継者の小野職孝(17741852)は,蘭山の没後に再版を企て,文政12年(1829)頃に完成したが,その版木も間もなく火災で失われた.職孝は窮状を岸和田侯岡部長慎(ながちか,17871858)に訴え,援助を求めた.長慎は職孝の願いを入れ,同藩の医師井口望之(楽山)に校訂を命じ,弘化四年(1847)に『重訂本草綱目啓蒙』を藩版として刊行させた.この『啓蒙』第4版は,校訂がもっとも良いという.
一方,長慎は『啓蒙』に図が無いのを惜しみ,井口望之に編集させ,服部雪斎・阪本純沢画『本草綱目啓蒙図譜』を刊行した.これには刊記が無くて藩版と思われる嘉永二年(1849)と,刊記を有し市販版らしい同三年刊本がある.しかし,図譜出版には大金を要するからか,山草部4冊だけで終わった.(故磯野直秀慶大教授の解題による)

★井口望之編,服部雪斎・阪本純沢画『本草綱目啓蒙図譜(1849) の「巻之九 草之二」には,アマナの美しい木版圖(右図,NDL)があり,
「[山慈姑]アマナ
一葉ハ嫩根ナリ二三葉ノモノ花
アリ六辧白色又淡紅黄モアリ」
との説明文が添えられている.

★水谷豊文(17791833)『本草綱目紀聞』は小野蘭山門下の豊文(通称は助六)が,蘭山著『本草綱目啓蒙』植物部の大増補を企てた著作である.項目ごとに『啓蒙』の主要な文を転写し,自己の得た知見・方言を追加,『啓蒙』に無い写生図や印葉図も付した.豊文の自筆本は『啓蒙』増補部分が39冊・類別部分が21冊で計60冊,いま杏雨書屋が所蔵する.

その増補部分のうち26冊を転写したのが,NDLのデジタル資料として公開されている.転写したのは豊文門下の大窪昌章らしい.

その第一分冊には
「ヒメスイセン
アマナ/トウロウバナ/ムギグハイ 京 根ニ皮アル故名/アマイモ 京上加茂/ナンキンスイセン 京花肆/アマツボロ 鳥羽村/ハルヒメユリ 京花家 江戸染井/トウロン/マツバユリ 江州/スミラ 肥前/カタスミラ 筑前/ウドンゲサウ/ツルボ 丹波/ハミズハナミズ 加州/ヘラビル/カタハグサ/ウグヒス 摂州/テイデローセン 紅毛/ハタグワイ/ヒルグワイ 濃州野中村/シヽコロバシ 木曽岩ノ郷
山慈姑   山慈菰 百一選方 紅燈籠 附方 金〓/[釋名]金燈 拾遺/鬼燈〓 綱目/朱姑 綱目/鹿蹄草 綱目/無義草/金燈籠綱目 醫燈續燭古今医統壽世保元/馬無乙串 郷藥本草

山野ニ生ス
立春後出芽春多晴明ノ頃花
ヲ開葉ハ皆白色ヲ帯ブ

ヒメズイセン
勢州員辧郡坂本山産 啓蟄前後出芽

ヒメズイセン
大葉、小葉アリ土地ノ肥瘠ニヨル 別種ニアラズ 大葉ハ長サ一二尺許、水仙葉ノ如ク花モ
大ナリ 小葉ハ二三寸綿棗兒葉ノ如シ 花モ小ナリ 又一種花ノ最小ナルモノアリ 一
根一葉ノ者ハ嫩根ナリ 二葉ノ者ハ中間ヨリ一両莖ヲ抽ツ 其端ニ細小
葉二三ヲ対生シ 上ニ一花アリ 肥レバ二三花、大サ七八分、六弁白色 外ニ紫
條アリ 日光ヲ得テ開キ夕ニ至レバ収ル 中ニ黄色ノ蕋アリ 數日ノ後
辧脱ス 其実三角、大サ二二分 ハツユリノ実二似タリ 四月ニ至リ苗枯ル 根
ハ圓ニ小クシテ澤蒜(ノビル)ノ根ノ如シ 掘出セバ外ニ黒皮アリテ包ム 其中ニ褐色
ノ皮アリ 又其中ニ白キ綿アリテ根ヲ包ム 紫金錠ハ医学入門,万病回春,外科正宗 即附
方ノ萬病解毒丸ナリ 其主薬ハ此山慈姑ナルニ、今石蒜ヲ代用ルモノハ
誤ナリ 蔵器説ニ葉似車前ト云ハ車前葉山慈姑ニシテ卽ハツユリナリ

山慈姑 黄花ノモノ 立春前出芽
伊吹山産 蝦夷ニアリ 此根ヲ食ス

[彦根數江ノ説]古今医説
壽世保元ニ金燈篭トアルハ黄花ノモノヲ云 附方ニ紅燈篭トアルハ紅花ノモノヲ云ナ
ルベシ

藥店ノモノハ備後産ト云 又舶来ト云
紅花ノモノハヒガンバナ豆州勢州庄野北ツカ村ニアリ

山慈姑病人ノ不食ニ用ユト云」
とあり,『本草綱目啓蒙』の記事に改訂・追記がされ,模写でも美しい図が加えられていて,『啓蒙』では言及されていなかった食餌としての利用法も記されている.
また,方言では,「ウドンゲサウ,カタハグサ,シヽコロバシ,ハタグワイ,ハミズハナミズ,ヒルグワイ,ヘラビル」が加えられている.

「シヽコロバシ」のシシは,猪であろうが,イノシシの好物であるからだろうか.「ヒル,ヘラ」は「ひる(蒜):ネギ・ニンニク・ノビルなどの総称の古名」由来で,韭葉山慈姑と同様,葉がニラのそれと似ていることに由来すると思われる.